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(初版2003.4.2;微修正2014.10.16;更新2003.8.31)

「ビヘイビアリズムVSネイティビズム」




2003年3月、敵か身方かという二元論で世界を恫喝したブッシュjrによる イラク攻撃が始まった翌日、古本屋で『世界覇権国アメリカの衰退が始まる』講談社/2002 という本が目に入った。

目次をみると社会情勢からいっても、興味をひかれる項目があった。 しかも、わたしが少し興味をもつ社会生物学と社会思想の問題などもとりあげられて いるので、その部分をのぞいてみた。

ちょっと見ただけでも、乱暴で混乱した内容であるように思った。 普通は、こういう本は買わないのだが、私が興味をひかれたように他の人も手に取る だろうと思われるので、どの辺りを変だと思ったか書いておこうと思う。

とりあえず私が目を通したのは第1章3節の「ビヘイビアリズムVSネイティビズム」で ある。池田小学校の無差別殺人事件をとりあげ、精神障害者の扱いにおける 過剰な人権思想が問題だと主張している。

様々な社会の病気は、もはやリベラル思想の理想主義では解決しないと言う。 わたしはリベラルというのが必ずしも理想主義を表すことばではないと 何かで見た気がするが、もう少し読んでみよう。

副島氏は、 西欧およびアメリカでは16世紀以来、「教育で人が改善できるか」が論争されてきた という。この論争は、貧困や、人種対立や、戦乱や、差別や、環境問題などの 改善可能性や、精神病患者を治すことができるのかという問題と同じであると主張する。

この文章も多様な問題をごたまぜにして乱暴すぎると 思うのだが、さらに続けて見てみよう。

副島氏は、 この対立は16世紀以来のネイティビズム(nativism)とビヘイビアリズム(behaviorism)の 対立であるという。

ビヘイビアリズムという言葉で皆が普通に思い浮かべるのは心理学の教科書に出てくる アメリカのJ.B.ワトソン(1913年)などの行動主義のことだろう。これは、心理学において 科学的客観性を求めて、観察可能な行動の研究に限定しようという主張である。 行動主義が直接に対抗しようとしたのは内観という方法による意識の研究であった。 後に、測定が困難だから研究しないという態度がいきすぎて、動物には意識は存在 しないという主張になってしまったらしい。

20世紀に出現したビヘイビアリズムがどうして16世紀からネイティビズムと対立 できるのだろう。

副島氏は『〜は〜と同じ』と、どんどん言葉を言い換える。ビヘイビアリズムも 『人間は教育の力で改善される』という思想だという。 それならば、ネイティビズムVSビヘイビアリズムは、『氏か育ちか』という話で あり、古くからある考え方だと言ってもおかしくはない。 ワトソンが強固な環境決定論者だったのは本当であるが、 過去にさかのぼって行動主義を『育ち派』の代名詞にするのは不適切だろう。 何の言及もなしに、しかも不適切な言葉を『〜は〜と同じ』とする『同じ同じ病』 がこの人の乱暴な言論の特徴である。

主張の根拠について何の言及もなしに論理の段階を 飛ばす言論は、恐らく何らかの信念によるのかもしれない。 同じ信念を共有する人には通じるかもしれないが、 同じ信念を共有しない人には通じない言論である。 これは宗教書などにはよく見られる傾向である。

この人の文章のもう一つの傾向は、論旨とあまり関係のない雑学的知識をちりばめるの である。ある人名が出てくるとその人物に関係する人物の名前だけではなく、 その関連する人物の著作までならべたりする。こちらには大きなミスはないようなの だが、論旨に関係する記述ではデタラメをやるようである。

67頁で、コンラート・ローレンツが社会生物学(Sociobiology)を打ち立てた、 と書いてある。

これは間違いである。ローレンツが建設に貢献したのは比較行動学(Ethology)である。 社会生物学という言葉が一般的に流通するようになったのは、 E.O.ウィルソンの『社会生物学』(1975)からである。 1960年代から進んできた集団遺伝学(Population Genetics)と 個体群生態学(Population Ecology)の結合した集団生物学(Population Biology)に 動物社会学・動物行動学を統合した分野をまとめてみせたのがウィルソンの本である。

67頁:『社会生物学は社会工学を生んだ恐るべき学問である。 本当は、分子生物学や遺伝子工学もこの流れである。 優生学eugenicsとも近縁である。だから昨今の遺伝子組み換えや、 「ヒトゲノム」(ヒューマン・ジェノムhuman genome)の解明もすべて、 この流れである。』

ウィルソンは彼の本の最終章で人間に言及して、欧米で論争に もなった。だが、社会工学は生んではいない。社会工学と称する学問はあるが、 システム工学(コンピューターシミュレーション)の類を表すものであり、 航空宇宙産業から生まれたものである。

分子生物学や遺伝子工学と社会生物学は、周辺領域では薄い関係がある かもしれないが(例えば血縁関係の測定技術など。参照【付記5】)、 『この流れ』なんていうような直接の関係はない。 恐るべき副島流の文章である(^_^;)。

なお、 ゲノムについてわざわざ英語風にジェノムとしているが、 ゲノムは日本語化された生物学用語であり ドイツの植物学者、遺伝学者であるWinkler(1920)によるドイツ産の用語である。

68頁:『…私たちに、絶対平和愛好・人権主義万能が刷り込まれた。 日本人は、この社会生物学が応用された力で、穏やかでのんびりした今の 平和愛好民族に人格改造(集団洗脳)されたのである。ニューディーラーと 呼ばれる元祖グローバリストたちが、敗戦直後に日本に上陸したマッカーサー元師 の率いた進駐軍(アメリカ第八軍、連合国軍を名乗った)の中にいて、彼らが 「日本国憲法」を作ったり、日本の学校教育に対して民族教育やPTA を導入することなどで私たちに社会生物学と社会工学(文明化外科手術)を実践した。』

異常な文章である。副島氏は後のほうで、自分はネイティビストであると言っている。 つまり、教育などによって人格改善はできない(2割はできると書いてあるが)と 主張しているので、日本人が人格改造されたという、この主張とは自己矛盾している。

副島氏は、アメリカに対する反感から、「刷り込まれた」という言葉を使いたくて、 こういう文章になったと推察できる。 しかし、人権主義の刷り込み現象なんてありえない。

アメリカの学者がヨーロッパのエソロジーを知るようになったのは第二次大戦後である ようだし(参照【付記6】)、 ローレンツが動物の行動に関する一般向けの読み物を書きはじめたのは 『ソロモンの指輪』(1949?ドイツ語版?、1952英語版)、『攻撃』(1963)など 1950年代からであり、社会思想としてアメリカの日本占領期(1945〜1952)の政策に 影響力があるわけがない。というよりも、人格改造や社会工学(文明化外科手術)なんて いうことができる学問ではない。刷り込みというのは教育や洗脳とは関係がない現象で ある。

ウィルソンの『社会生物学』(1975)の出現はローレンツより、さらに、もっと後である。

アメリカが日本の学校教育に導入した民族教育って、何だ。民主教育の間違いだろうか? しかし、この著者なら本気で民族教育って書いたのかもしれない。

68頁:『ローレンツらが創始した社会生物学という言葉は、本当は恐ろしい 学問である。』

言葉が学問っていう文章も、稚拙だ。 この本は月刊誌『正論』(産経新聞)に連載したものを、加筆修正して出版したものだと ある。少なくとも2回の編集過程を通ったのである。副島氏は、 編集者の名前をだして謝辞を書いてあるが、この人たちは編集の責任をどう考えてる のだろうか。

68頁:『社会生物学は、ドイツで、ナチス・ヒトラー政権とともに、 いったんは絶滅させられた。』

そんなことはありません。

68頁:『ローレンツらは、戦後、正体を隠すために、ethologyという学問に 変身してみせた。日高敏隆氏や竹内久美子氏らが、この系譜である。 本当は、今西錦司、梅棹忠夫、梅原猛氏らもこの系譜なのだ。』

ethologyという用語は、Geoffroi Saint-Hilaire(1859)の造語である。 ローレンツの戦前の論文題名にEthologieという語は存在している。

今西、梅棹をethologistと言うのは不適切だし、梅原に至ってはなんの関係もありは しない。副島氏の『同じ同じ病』ではこんな違いは問題でないようだ。

70頁: 『このビヘイビアリズムが、現在の 世界中のリベラル派の思想の土だいであることがわかる。人権尊重主義である。』

ビヘイビアリストが、その教義を自由かつ民主的な原理に適した基礎であると 自賛したことはあるのかもしれない。 だからと言って世界中のリベラル派がビヘイビアリズムを基礎にしていると信じる 必要はない。人権尊重と、「氏か育ちか」と、ビヘイビアリズムは別の問題だと思う。 だが副島氏の『同じ同じ病』だと、区別できないようだ。

70頁: 『ネイティビズムが保守派の思想である。今の私は、当然、ネイティビスト である。二割ぐらいは環境と教育の力で人格改善できるが八割は無理だ、とする やや中間の立場だ。』

中間ならネイティビストなんて自称はしない。

70頁: 『この両派の対決は、あらゆる学問の裏側に控えている。この対立軸を中心に 、今の世界は動いていると言ってもよい。』

今どき、心理学でさえ『氏か育ちか』なんていう問題設定をするのは主流ではない だろう。あきらかに、両方が関っていて、しかも、一般論が成立するわけではなく、 個別の生物の個別の問題ごとに考察すべきことは明白になってきたからだ。 このような二元論が主流だという主張は、本来はマイナーである極論をメジャーに 見せかける病的な手法と言えるだろう。 それにしても、「あらゆる学問の〜」とは、窮極の『同じ同じ病』だ。

しかし、極論者たちの論争がなかったわけではない。 昔、ローレンツがビヘイビアリズムを批判して、不毛な『氏か育ちか』論争をした ことがある[1]。ちがうパラダイムの分野の用語をめぐる論争が噛みあわないのは よくあることだ。

74頁: 『彼らリベラル派の社会学者、心理学者、動物学者の中で、社会生物学者では エドワード・オズボーン・ウィルソンEdward Osborne Wilsonが有名だ。』

副島氏はウィルソンをリベラル派に分類しているが、これは一般的な認識とは 逆である。アメリカの急進的な科学者組織「人民のための科学」の進化生物学者 のレウォンティンやグールドからウィルソンの本は 遺伝学的決定論の反動的思想の書として批判されたそうである[3]。

わたしは、多様な側面をもつ人間をall-or-noneで判定するのはなるべくしないように したいと思っている。副島氏のこの本にも、もしかしたら有用な情報が含まれている かも知れない。しかし、自分が知らない分野についてこの本から知識を得ようとする のはやめたほうがいいだろう。トンデモ本を楽しむ趣味のある人にはいいかもしれない。 わたしは、もうこの人の本を読まないだろう。



【参考書】

[1]「行動は進化するか」K・ローレンツ(1976)講談社現代新書

[2]「ローレンツとは誰だったのか」ノルベルト・ビショップ(1992)白水社

[3]「人間の本性について」E・O・ウィルソン(1980)思索社


【付記】

古本屋でこの本を立ち読みしたとき、たまたま目を通して変だと思ったところをもう 1つ。

78頁:『だから、プリオンは生命体ではない。あくまで物質である。 バクテリアbacteria(細菌)よりももっと小さくて、ウイルスvirusとも違う。 バクテリアもウイルスも細菌(ジャーム)ではあり、それぞれが一個の生命体である。 これがもっと大きくなると粘菌類のようなアメーバとなる。』
ウイルスも細菌もバクテリアも生物学で、はっきり対象が特定される用語である。 バクテリアは日本語では細菌と訳される(本人もそう書いている)。 つまり副島氏の文章は、『細菌もウイルスも細菌ではあり…』となり日本語として 変である。

副島隆彦氏は研究社の英和辞書が欠陥辞書であるという主張の書籍を出して有名に なった人である。そのわりには言葉を丁寧に扱わないようである。

ジャームgermという言葉を小さい英和辞書で引くと、第一の意味は 【病原菌、ばい菌、細菌】とある。わりとラフに使われる単語のようである。 ここでバクテリアとウイルスを包含する言葉として適切な ものをあげるとすれば微生物microbe, microorganismくらいのところだろう。

バクテリアより大きい生物の例として粘菌を特別に出して、南方熊楠 の話までする必然性はなにもない。粘菌をアメーバと限定するのもあまり適切とは 言えない。粘菌はアメーバ状になったりアメーバ状でなくなったり姿を変えるのが 特徴だから。


【付記2】

ウイルソンの社会生物学とローレンツのエソロジーは、 ともに遺伝的決定論(この本でいうネイティビズム)という批判を受けたことがある。 ところが別の社会思想に関連する概念(個体が重要か、全体が重要か)では 社会生物学の多数派はローレンツの種全体を重視する見方や群淘汰説を厳しく 批判していたのである。一方で、ウィルソンは群淘汰説を認めている。

『同じ同じ病』の副島氏には、このような違いも気にならないから、ローレンツが 社会生物学を創始したなどと書けるのかもしれない。不思議だ。


【付記3】二元論者VS中道論者?

副島氏は、この本の第1章3節「ビヘイビアリズムVSネイティビズム」を精神障害者の 扱いにおける過剰な人権思想の問題として始めて、最後にもそこに戻り、ある種の メッセージを示唆している。

この件について、ローレンツの極端な文章を心配して彼に手紙を書いた元助手 ノルベルト・ビショップの 見解を引用しておく[2]。

『自由民主主義のこうした歪みは物差しの一方の極にあたるのです。けれども、 もう一方の極には、アイヒマンやアウシュビッツがあり、人種差別主義、民族差別、 私刑があります。この物差しの真ん中の両側に真の価値がある、ということを私たちは 強調しなければなりません。

非人間的になるのは、両方向に極端に行ったときなのです。右や左の極端な立場は一言の スローガンにはっきり表現できます。ですから政治家はこちらを好むのです。けれども 科学者は状況を厳密に、そして明瞭に認識することで人間的な中道を示すことができ なければなりませんし、社会を保護し、健全に保ちつつ、しかもファシズムに行き着く ような危険な滑走路に入りこませないための基準を打ち出すことができなければなりま せん。

「えせ民主主義的な寛容、つまり人間社会における欠陥構成員を十分価値のあるそれと 同等扱いするような寛容さは、地獄に向かって門を開いているようなものだ」といった ような文は、そのあとに「けれども」が続いて、バランスをはからないならば、文字ど おりファシスト的なのです。』

もし、精神障害者の扱いなどに関するテーマについてとりあげるつもりならば、 副島氏のような論議ではなく、もっともっと慎重で丁寧な論議が必要であろう。


【付記4】

副島氏が精神障害者だと思った池田小学校殺人事件の犯人は、裁判の一審判決で 責任能力が認められて死刑判決がでた。


【付記5】(2009/8/14)

社会生物学では遺伝子という概念が使われる。従来の社会生物学では、行動の遺伝子を 実際に特定するような研究は少なくて、単に概念的な解釈にとどまっていた。

最近、遺伝子工学は発展して他分野での利用が容易になってきた。 遺伝子工学を使って行動に関与する遺伝子も特定されるようになってきた。 そうした統合的分野の研究はSociogenomicsと呼ばれる。

遺伝子は多くの生物現象に関係しているので遺伝子工学は、生物学の多くの 分野で利用されるようになっている。だから、社会生物学で遺伝子工学が 使われるようになったとしても、それは遺伝子工学が社会生物学の「流れ」なんていう ことではない。


【付記6】(2010/3/25)

1953年に英語の原著が出版されたエソロジーの入門書(「動物のことば」 N.ティンベルヘン/1955/みすず書房)には、この分野の文献は主にドイツ語で 書かれていて、まだ英語文献には充分に紹介されていない、とある。



著:佐藤信太郎
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