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(初版2002.1.3;微修正2014.10.16;更新2010.6.4)

殺人、幼児教育、自殺



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社会規範

TBSラジオの討論番組アクセスでは『なぜ人を殺してはいけないか、 あなたは答えられますか?』というテーマが繰り返し取り上げられています (2001.2.27放送分、2001.12.17放送分など)。 青森で行われた日本教職員組合の教育研究全国集会(教研集会)の 『少年事件を考えるシンポジウム』で高校生がこのような質問をしたのがきっかけ のようです。高校生がこんな質問をするとは、うっとうしい話です。 ほかのマスコミや出版物にも取り上げられています。 おまけに大学の入試問題になったりしたようです。

この件についての評論の中には、その場にいた大人がダイレクトな答えをできなかった ことが問題だと主張しているものがあります。しかし、質問には必ずダイレクトに答え ようとする、というのは常に正しいことではありません。

この手の質問に答えようとして頭の先から問題に飛び込む前に、検討が必要なことがあ ります。本当にそれは答えを望んでいる質問なのかどうか。次に、その質問の前提が 正しいかどうか。そして、質問の条件設定が検討にあたいするほど正確かどうか。

幼児教育の本をみると、幼児が「なぜ」と質問したときには、本当に質問の場合もある が、ある種の情緒の表明である場合もあると書いてあります。その場合には質問に答え ようとすることは適切ではないわけです。

教研集会のシンポジウムなんてところに出席して、こんな質問をする高校生がいたら、 答えようとする前に、まずどうしてそんなこと言うのか確かめるべきなのです(幼児で はなくても)。たとえば、その場の議論にいらついたとか、単なる目立ちたがりとかの発言の可能性だってあるでしょう 。

次に、この質問の前提は正しくないと思うのです。「人を殺してはいけない」というの は無条件にどの社会集団でも成立しているのではないからです。

人を殺すのが人間集団では認められる場合もあるからです。戦争時の兵士。治療のすべ がなく苦しみを除けない患者を安楽死させる医者が認められる国もあります。 犯罪者の死刑執行をする人。 テロリストが敵を殺したなら、仲間からは賛美されるでしょう。 人質を助けるために警官が犯人を狙撃することもあるでしょう。 江戸時代に殺人や不義密通には敵討ちが認められていましたし、 間引きも行なわれていました。

だから「人を殺してはいけない」というのは無条件に成立するのではないのです。そん な質問をする場合には、「いけない」というのはどういう条件における誰にとっていけ ないか正確に特定する必要があるのです。たとえば死刑制度をやめるべきか否かなら、 まともな議論ができるでしょう。

問題を、気ままに殺人を行う人間の場合に限定すれば、人間は社会を構成しているから 、そんな殺人者を社会が許容しないのは不思議ではないでしょう。そんな人間が隣にい て周りをうろついていたら普通の人間はおちおち寝てもいられない。例えば気ままに殺 人事件を起こす異常者や、感情にまかせて自分かってな理由で復讐をする人間がいたら 、それは言葉で説得できるかどうかなんてことが哲学的な課題なのではありません。彼 らとは共存できないのです。気ままに殺人を犯す人間には警察などによる実力行使が必 要とされるだけの話なのです。この場合の誰にとっていけないかというのは、社会(み んな)の安全にとって不都合だというだけの話です。

社会は気ままに殺人をする人間を許容しないで抹殺するか、最低限、監禁するから、子 どもを、社会から抹殺されるような事態にならないように親は無自覚だろうけれど社会 規範に従うように子どもをしつけるのでしょう。この場合に「いけない」という倫理を 教育することは親が間接的に自分の遺伝子の存続を確保するために子どもに持たせる「おまもり」みたいなものなのでしょう。

このような社会規範は、考えて実行に移すのではなく、反射的に行動に反映されたほう がいいので、親は「人の命は地球より重い」だとか、「神様が見ている」とか、繰り返 し子どもにしつけるのでしょう。

社会規範の教育は基本的に親によって行なわれるべきものですが、学校教育などで他 人がこれに関わることもあります。ところが、学校などを集団における権力行使の末 端機関と考える人間がいるので、ここで教え込まれる規範は時には「個人の保全」とい う本来の目的からずれることもありうるのです。敵集団を殺すために自己犠牲をもとめ るような集団教育だってありうるのです。TVでイスラム過激派の教育施設でそういう 教育がされているのを見たことがあります。日本でも、今、露骨にそういう主張をして いる政治家がいます。


生物などにたいする愛護心

幼稚園や保育園では子どもの生き物にたいする愛護心の育成が課題とされます。また、 新聞の投書欄で、野草を取って遊ぶ子どもについて、残酷だと批判する意見と、教育 に有用だという意見が対立していたことがありました。

人間以外の生物の扱いに関する倫理には絶対的基準はないとおもいます。キリスト教文 化では人間と動物などを峻別するようですが、生物学的観点からみたら本来は、どんな 生物でも命をもつことに違いはありません。

生き物にたいする愛護心と言うものは、確実な根拠のない、恣意的なもの、 つまり文化なのです。 根拠がないから人により判断の食い違うことはよくあります。 そして、子どものころに身につけた文化は頑固に持ち続ける傾向があります。

ほかの生物にたいする扱いの基準のある部分は、その生物が人間にとって利用できるも のか否かによるでしょう。そして利用するに際して身近に動物の解体などが行われる環 境では、その行為は残酷などとは言われないのです。

もう一つの基準はその社会で、その生物がどれだけ人間に近いと感情的に 認識されているかによるでしょう。人間に近いと認識される生物には人間に準じる 扱いが求められるわけです。子どもの、その生物にたいする態度はやがて人間の 扱いにも反映されるでしょうから。このような生物にたいする倫理は、多くの人に よって、どんな社会が求められるかということが無自覚のうちに反映されているで しょう。 根拠がなくても、生き物への愛護を教育するというのは必要なのかもしれません。

しかし、この種の運動はときに、江戸時代の生類憐れみの令などのようにバランスを欠 いたものになることがよくあるように思います。

宗教的に4足動物の食用が禁じられていた江戸時代は、現在よりも人間にたいする扱い が優しかったかと言うと、そうは思えないのです。

宗教は人間を越える神聖な存在を前提とするために、人間の位置が相対的に低くなるの で、宗教による生き物尊重の思想がヒューマニズムの向上をもたらす効果には限界があ るのです。神聖な存在の意志を実現するためと言って、人間を殺すことが可能になるか らです。

昔の、さらし首や磔(はりつけ)にするようなワイルドな文化から、 現代の死刑廃止運動など、やさしい文化(?)へ向かう傾向は明らかでしょう。 これは科学の分野にも影響しています。少し前から、欧米では研究での動物の扱いに 倫理的な制約が課されています。知人が、欧米で発行される学術雑誌に生態学の論文を 投稿したさいに、はちゅう類を標本として殺すときに苦痛を軽減する配慮がされていない と審査で警告されたことがありました。

動物の生態の研究を志す人間には2つのタイプがいるようです。知的な面白さを動物と いう対象に感じている場合と、情的な親しみを動物に感じている場合です。わたしは、 どちらかというと前者でした。私自身は、とくに残酷な性格ではないと思いますが、し かし、周辺にいる後者の人の動物にたいする態度から影響をうける面はありました(私 が彼らより倫理的に劣ると見られるなんていやですから)。

子どもの場合も、生物にたいする、この類の倫理意識を身につける上で、周辺にいる大 人の生物にたいする態度が影響することもあるでしょう。

幼児にはちょっとした言葉が影響する場合もあります。大人が使う、害虫とか雑草とい う言葉によって幼児がそれらを粗雑に扱うこともあるでしょう。私が幼児のときに、大 人に草花といわれて、草=雑草と思って、植えてあったものをひっこぬいたことが ありました。

幼児教育では愛護心だけでなく、科学的好奇心の芽生えもまた育てるべきことだとされ ています。だから、子どもがどのような状況で生き物にたいしているかによって違う判 断をすべきなのです。子どもの生き物にたいする態度が乱暴で粗雑なもの(この野郎な んていいながらいたぶるなど)だったら注意すべきでしょう。昔からある言葉が判断基 準として有用でしょう。「無駄な殺生をしてはいけない」



(サッカーのワールドカップの開催と関連して韓国の犬の肉の食習慣を欧米が批判して いるようです。ところでインドはなぜ神聖な牛を食べるなと外国に働きかけないのでし ょう)


何のために生きているのか

人間は中途半端に頭脳が発達しているので、他人の言葉に惑わされて、 本来あるべき判断から外れた行動をしてしまうことがあります。

「何のために生きているのか分からない、死にたい」という言葉は本心なのかどうか。

「現状が苦しい、嫌だ」というべきことを「何のために生きているのか分からない」 という言葉にしてしまうと、その言葉が主導権を握ってしまうのです。

「現状を逃れたい」というべきことを「死にたい」と言ってしまうと、 「死ぬ」ことが目的になってしまいます。

誰かの言った言葉に踊らされてしまうのです。 生きるというのは、人間に限られたことではありません。他の生物は、生きる意味を 考えて生きているわけではないのです。

だけど、あえて生物学的に答えるならば、生物は「生きるために、生きる」のです。そうしなかった生物は全て滅びてきたのです。ただ個体は、いくら生きようとしても永遠には生きられないのです。そこで遺伝子を託す子供をつくるのです。だから「繁殖するために生きる」と言い換えることもできます。

こんな考え方では、子供がいない人の場合、空しいでしょうか?自分の遺伝子は子供だけから子孫に伝わるわけではないです。兄弟姉妹の子供、あるいは親戚の子供を通じてだって伝わるのです。赤の他人といえど遺伝子を全く共有しない訳ではありません。そうしたことを考えるなら多少は「自分が生きる」ための方向が見えるのではないでしょうか。

とはいえ、生きているというのは、それだけで素晴しい現象です。すべての人に説得力があるとは思わないですが、少し生物の仕組を勉強してみるべきだと思います。無数の細胞と、その中で行なわれる無数の分子の、とてつもない複雑な作用が統合されないと生きていられないのです。単なる物質が集まって、感じたり、考えたり、行動したりする自分が存在しているのは素晴しいことです。

死にたいと思う人は、うつ病にかかっている可能性が高いのです。人間の精神はそんなに強くありません。つらい状態に置かれたら、うつ病になります。病気なのだから精神科を受診するべきです(※)。そして苦しい現状の原因が家族、学校、職場などの人間関係だったら、そこから離れる方がいいのです。あなたの近くの人間が耐えがたい奴ばかりだとしても、人間は67億人以上いるのだから、別のところで、いい人間関係を見つけることができますよ。

※追記:NHKスペシャル(2009年2月22日)によれば、患者を薬づけにするような医者や 医療機関も少なくないようです。また、うつ病の診断は難しいようです。医者選びは 慎重に!健康な時に調べておいたほうがいいでしょう。

※追記:精神科に関しては気になる数字があります。自殺前に相談機関を訪れた人は 72%いて、そのうち精神科は58%だそうです。これはNHKのクローズアップ現代 (2009年12月1日)が紹介したNPO法人ライフリンクが300人の自殺者を調べた数字です。 抗うつ薬のSSRIを発売する製薬会社の「うつ病啓発」と、精神科でのSSRI処方が、 うつ病の増加に関連している可能性があると東京新聞(2009年12月20日)で指摘されて います。 日本で発売されているSSRIは、ルボックス、パキシル、デプロメール、ジェイゾロフト の4種類。 欧米の試験では、パキシルの児童・思春期への投与は偽薬と有効性に差がほとんど 出ず、自殺関連事象は2.43倍という報告があると東京新聞(2009年11月16日)に紹介 されていました。

(SSRI=選択的セロトニン再取り込み阻害薬。2000年に国内認可)

※追記:東京新聞(2010年5月30日)によると、精神科治療を受けながら自殺に至った人の 6割近くが、処方された薬を過剰に服用していたことが、厚労省研究班の調査で 分かったそうです。

自殺対策支援センターライフリンク


著:佐藤信太郎
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