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(初版2009.2.28;微修正2016.12.31;更新2016.12.27)

S.Wrightが適応度ではなく適応度関数/淘汰値を使う理由





「有利な変異の保存と有害な変異の棄却とを、私は自然選択とよぶのである」 (ダーウィン『種の起源』)


●このように自然選択の概念は単純だが、数式化しようとすると難しい問題は多い。 その難しさの一端は太田邦昌[1]などに指摘されている。交配などの厳密な扱い方に 関心がある人は、このような本を参照してもらいたい。

ここでは、教科書などに出てきて、単純だが誤解しやすく、また生態学の概念には重要な 自然選択の用語について解説しておきたい。

それは『適応度(fitness)』である。 この用語は多義的である。淘汰値(選択値selective vale)を指すことも あれば、適応度関数(fitness function)を指すこともある。 さらに工学分野の遺伝的アルゴリズム用語から逆輸入されて混乱も生じている。

淘汰値とは、集団が1代ごとに新しい世代の個体によって完全に置き換えられる 不連続世代モデルで、各遺伝子型の1個体あたりが次代に残す子どもの数 である(親と同じ成長段階に達したものを数える)。生態学分野では純増殖率 (net reproductive rate)とよぶ量を遺伝子型ごとに区別したものである。 局所的、いわば、個体の特性である。

適応度関数とは自然選択で最大化される集団レベルの特性である。つまり、 集団の平均値などが最大化されるような特性である。

自然選択を考える場合、 ある遺伝子の頻度がどう変化するか、ということが重要である。ある遺伝子をもつ 個体の淘汰値が、その遺伝子を持たない個体の淘汰値より大きいならば、基本的には その遺伝子の頻度は増加すると考えられる。

だから、遺伝子型の淘汰値(遺伝子型の純増殖率)を適応度と呼ぶのは問題がない ように思えてしまう。これに引きずられて、集団についても、 平均淘汰値(集団全体の純増殖率)や、それに類する増殖の指標 (内的自然増加率など)が自然選択で最大化される量(適応度)として扱われること は多い(参照:補足3)。しかし、これはいつも適切であるとは言えないのである。

たとえば木村資生[6]は 「自然選択によって集団適応度の下がることがある」という表現をしている。

普通、適応度という言葉からは、自然選択で最大化される量がイメージされる。 ところが、淘汰値の平均値は最大化されない場合もある。 だから、各遺伝子型の淘汰値を適応度と呼んでしまうと、 「自然選択で集団適応度が下がることがある」という、 矛盾した表現をしなければならないのである。

「自然選択で集団適応度が下がることがある」というのは、遺伝子型の淘汰値が 遺伝子頻度に影響される場合に生じる。

これは具体的にどういうことだろうか?この場合の集団適応度とは集団の 個体数増加率(純増殖率)のことであるから、ちょっと考えれば分かるだろう。

新しい遺伝子型が、従来の遺伝子型より相対的に増えるとしても、その結果、 集団がより増えるようになるとは限らない。 その理由は、たとえば競争相手に対する妨害行為で有利になる場合だって考えられるから である。

分かりやすい例として、妨害行為というものを挙げたけれど、 淘汰値が遺伝子頻度に依存する仕組みは、あからさまな攻撃を想定する 必要があるわけではない。実は、ふつうに密度効果がある場合には遺伝子頻度に 依存するのである。

エサを「探して」「捕まえて」「食べる」能力に違いがある個体が集団の中に いるとする。こうしたエサを取るステップに関係する能力全体をエサの消費能力と 呼ぼう。エサの消費能力が高い個体の割合が大きい場合と、その割合が小さい場合 では、同じ個体数でも密度効果の程度に違いが生じる。

たとえば足が抜群に速くて他の個体より早くエサを捕獲して食べてしまうタイプと、 足が遅くてエサを捕獲しにくいタイプでは同じ1個体と数えては密度効果を正しく 評価できない。

大食いの相撲取りと小食の一般人は、資源消費に関しては同じ一人と数えるのは正しく ない。

だから密度効果がある場合は、集団を構成する遺伝子型の割合(頻度)は淘汰値に 影響するのである。そして、エサの消費能力が高い型のほうが、 潜在的な増殖能力が低いこともあるのである。

集団遺伝学の土台を作った理論家の一人である Wright[2]は遺伝子型の純増殖率を適応度と呼ぶのを避けて淘汰値と呼び、 淘汰値と適応度関数という用語を使いわけた:

In R.A. Fisher's(1930) fundamental theorem of natural selection, "the rate of increase of fitness of any organism at any time is equal to its genetic variance in fitness at that time", the word "fitness" is used in two sense. In the second sense it is a property of individual genotypes W which have a "genetic"(additive) "variance". In the first sense, it is a property of the population that has a "rate of increase".

中略

It has been generally recognized that "the fittest" in the expression "the survival of the fittest" has only a tautologous meaning. In this sense it is appropriate to designate the property of the population that automatically increases under selection as the "fitness function." It seems desirable, however, to use a different term for mean(W), "mean selective value", a property of the population that may decrease under selection, in order to avoid ambiguity. This implies use of "selective value" rather than "fitness" for the property of individuals of which mean(W) is the population mean. This involves the paradox, however, that increase in the fitness function of a population may imply decrease in population size and may even lead to extinction.

※ mean(W)は普通は、Wの上に横線をつけた記号で表されるが、htmlの規格ではできないので、このように表現した。

※ Wright[2]の論文においては、自然選択で最大化される集団の特性を適応度と呼ぶことは 完全には排除されていない。同じものを適応度と書いたり、適応度関数と書いたりしてい る。

●この文章の冒頭に、ダーウィンの自然選択の定義を書いた。この簡潔な定義に、 ダーウィンは『種の起源』の第5版において「最適者生存」という言葉を付け加えて しまった。これはハーバート・スペンサーの表現であるが、ウォレスに勧められて 付け加えてしまったのだ[7]。 自然選択説を否定したい人たちの一部は、この追加された標語に食いついて批判した。 「最適者が生き残る。何が最適者かというと生き残るのが最適者。つまり自然選択説は トートロジーで意味が無い」という批判である。

ここに引用したWright[2]の文章を見ると、「適応度関数」という用語を作ったのは、 このトートロジー批判に対処する意図もあったようだ。

●ウィキペディアなどでは、適応度関数が 遺伝的アルゴリズム用語として解説されていた(2008年1月17日付の記述)。 遺伝的アルゴリズムというのは工学分野のコンピューター手法で、生物の遺伝の仕組みと 自然選択を摸倣した最適解探索法である。

しかし、工学には目的関数、評価関数という適切な用語があるのだから、 適応度関数なんていう用語を使う必要はない。自然には目的はないので、 生物学では適応度関数という用語が必要なのである。

遺伝的アルゴリズム関係の文書には適応度関数の値を適応度としているものもある。 経済学での「効用関数と効用」と似た用法なのかもしれない。

適応度関数の、このような説明は生態学にも伝染している。少し前から、生態学の本で、 適応度の定義を「繁殖可能まで成長できた子の数」と書いている一方で、 「適応度関数の値が適応度」だと定義を重ねているものを見かけるようになった[8]。 これでは集団生物学における適応度という用語の多義性が解消されない。

適応度関数という用語は従来、生態学分野にはあまり浸透していなかった。 そこに工学分野の遺伝的アルゴリズムなどを経由して逆輸入した人がいたために、 こんな混乱をしたのかもしれない。

一般の言葉と同様に、自然科学の用語でも、誤解により意味が変化することはある。 それでも、実用上、大きな不都合が生じないのは、専門家は、どのような意味で使われて いるか文脈や使う数式の違いなどによって一応は判断できるからである。

しかし適応度という用語の多義性を避けようとしたWrightの意図が理解されずに、 適応度関数という言葉が、再び多義性を持ってしまうのは残念なことである。 そこで、Wrightが淘汰値や適応度関数という用語を使用した理由を解説しておこうと 思ったわけである。


●補足1

ここで適応度関数の具体例を示しておこう。 しかし適応度関数が具体的な関数として表せるモデルは少ない。

説明を簡単にするために、無性生殖をする生物を想定する。だからといって、 結論が無性生殖だけにしかあてはまらないという訳ではない[4]。 有性生殖なら、これ以上に複雑な条件を論じなければならないと理解してもらいたい。

Wrightの適応度関数は、不連続世代モデルで定義されているが、ここでは連続世代 モデルで説明する。

単一の純系個体群の増殖が、ロジスチック式の派生モデルで次のように表されるとする。

(dN/dt)/N = r(1-N/K)-D

Nは個体数密度。rは個体あたりの最大増加速度。Kは飽和密度。Dは密度に依存しない死亡率。

この集団のある遺伝子座(i)に遺伝的変異Qが生じたとする。元々あった遺伝子を Pとする。それぞれの頻度をqpとする。p+q=1である。

遺伝子型Pの個体数密度NPp×N。 遺伝子型Qの個体数密度NQq×N

遺伝子座(i)はrKDに影響すると仮定する。

遺伝子型Pの個体数密度NPの個体あたり瞬間変化率は、

(dNP/dt)/NP = rP(1-{NPQNQ}/KP)-DP

これは、不連続世代モデルの淘汰値に相当する。 αQはQの一個体がPの密度効果においてPの何個体分に相当するかという競争係数である。

ここで、競争のタイプを限定する。直接相手に加害するようなことはなく、 単にエサを消費することだけで競争が起こるとする。遺伝子型Qの個体ががエサを 消費する能力をCQとする。遺伝子型PについてはCPである。

αQ=CQ/CP

と表せる。

NP=pNであるから、(dNP/dt)/NP = (dp/dt)/pとなる。

(dp/dt)/p = rP(1-{p+qCQ/CP}N/KP)-DP

     = rP(1-{pCP+qCQ}N/{CPKP})-DP

p+q=1であるから、

pCP+qCQは平均値である。これをmean(C)と表すと、

(dp/dt)/p = rP(1-mean(C)N/{CPKP})-DP

遺伝子Qについても同様に、

(dq/dt)/q = rQ(1-mean(C)N/{CQKQ})-DQ

いま遺伝子Qに注目して、Qが増加してPと置き換わる条件を求める。 「有利な変異の保存」は(dq/dt)/q>0から、

CQKQ(1-DQ/rQ)>mean(C)N

Qが増加する時、Pは減少する。「有害な変異の棄却」は(dp/dt)/p<0から、

mean(C)N>CPKP(1-DP/rP)

つまり、

CQKQ(1-DQ/rQ)-CPKP(1-DP/rP) > 0

これは、この増殖モデルの場合、自然選択で最大化される集団特性はmean{CK(1-D/r)}であることを示している。つまりこれが適応度関数である。

もう一度、記号を言葉に直すと、(資源消費能力×飽和密度×飽和率)が 適応度関数である。飽和率は(1-D/r)である。


●補足2

遺伝子頻度qの、世代あたりの変化Δqに関するWright[3]の選択公式を紹介しておこう。遺伝子型(j)のt世代の個体数をNj(t)とする。 遺伝子型(j)の淘汰値Wjは、

Wj = Nj(t+1)/Nj(t)

遺伝子型(j)の頻度をfjと すると、平均淘汰値(集団の純増殖率)はmean(W)=ΣfjWjである。選択公式は、

Δq = pq[mean(W)/q - mean(W/q) ]/{k・mean(W)}

ここで、k=2、ただし無性生殖の場合はk=1である。

Wqに関係しない場合は∂W/∂q=0となり、 自然選択で平均淘汰値mean(W)の 勾配が重要であることを示している。偏微分の記号∂を使っているのは、 頻度qだけに注目していることをアピールしているだけなので難しく 考えないで欲しい。

第二項の要素mean(W/∂q)の意味を、(補足1)のモデルを使って示してみよう。

遺伝子型jの淘汰値を

Wj = exp{rj(1-mean(C)N/{CjKj})-Dj}

とする。ただし、単一の齢クラスとして、世代時間は明示しない。

Wj/q = -Wj・{mean(C)/q}・N/(CjKj)

だから、第二項の要素は次のようになる。

mean(W/q) = -N・mean(W/CK)・mean(C)/q

個体数の平均増加率(平均淘汰値)の勾配だけでなく、資源の消費能力の平均値 mean(C)=ΣfjCjの勾配も自然選択の方向を決めるのに 重要であることが明示される。


●補足3

個体数の平均増加率が自然選択で最大化されると考えた代表例として、 Fisher[5]がある。その過大な主張を、木村資生の教科書[6]から紹介する:

自然淘汰基本定理によれば、{d mean(r)/ dt} ≧ 0 である。これは固定した外部環境 のもとで集団の適応度が自然淘汰によって常に増加する傾向にあることを示し、 過去に行われた生物進化が大局的に見れば、機能の改善を伴なっている事実と よく一致している。フィッシャー(1930)はこれを熱力学における第2法則 (エントロピー増大の法則)に対比すべき生物学上の基本法則としている。

mean(r)は連続世代モデルの、安定齢分布での個体数の平均増加率 (マルサス径数、内的自然増加率)。木村の原文ではrではなくaが 使われているが、よく使われる記号rに変更した。

※ 本屋で集団遺伝学のある教科書を見た[9]。 「フィッシャーの自然選択の基本定理」を説明したあとで、現実には適応度が無限に 大きくはならない、と疑問を述べていた。ところが、Fisherの枠組を出ないままで、 「赤の女王仮説」(競合する種が適応度を改善しようとしているから、留まるには走ら ねばならないという説明)でつじつまを合わせようとしていた。Wrightの研究を紹介 すれば必要のないことである。


●補足4

昔、natural selection の訳は「自然淘汰」と されていたが、現在は素直に自然選択とするのが一般的である。 だからselective valueも淘汰値ではなく、選択値とすべきだと考える人もいるだろう。 しかし、ネットで検索してみれば、選択値は「選択した値」の意味として使われること が多いと気づく。だからselective valueの訳は他の言葉と混同されない淘汰値のほうが いいと思う。


●補足5

NHK教育テレビ(2016/12/25)の『サイエンスZERO』は進化理論について、 視聴者を誤解させる内容であった。

アリの研究者の長谷川英祐が、アリの巣には仕事をしないハタラキアリが一定数いることを示して、 この性質は効率が悪いから、(短期的)効率がよい形質を進化させるとする「ダーウィンの進化論」 では説明できない、と主張していた。「適者生存」という言葉や「適応度」という言葉も 取り上げてダーウィン進化論を批判した。

この文章の最初に示したように、ダーウィンは自然選択を 「有利な変異の保存と有害な変異の棄却」と定義した。 「効率が高い」ことや「適応度が大きい」ことで定義してはいない。 「適者生存」という言葉はウォレスに勧められて追加したが自然選択の定義の本質部分ではない。 自然選択の定義は「短期的効率」に限定されない。

自然選択は遺伝子型による出生率や死亡率の違いによって起きる。 初等的な進化の教科書に出ている数理モデルでは出生率や死亡率の変動は考慮されていないが、 実際は、環境の影響などで世代毎に変動するのが普通だろう。こういう状況では変異が存続するか どうかは数世代について出生率や死亡率の効果を考える必要がある。 数理生物学の研究は膨大にあるので、変動する環境における自然選択の理論は多数ある。

「イザという場合に備えて予備のハタラキアリを保持する」性質は、このような 自然選択の枠組み内の数理モデルで十分に扱えると思われる。 数理モデルは目的とする課題に関係のない要素は省略するので、 省略された部分から批判してもダーウィニズムが不十分だということにはならない。 思い込みでダーウィン進化論を狭めて理解して、それで説明がつかないと批判することは意味がない。


●文献

[1]太田邦昌(1989)自然選択と進化:その階層論的枠組みI,II。 "『進化学:新しい総合』(現代動物学の課題7)"日本動物学会(編)、1-248。学会出版センター。

[2]Wright,S.(1970) Random drift and the shifting balance theory of evolution."Mathematical topics in population genetics" (ed.Kojima,K.),1-31.Springer-Verlag.

[3]Wright,S.(1942) Statistical genetics and evolution. Bull.Amer.Math.Soc.48:223-246.

[4]Satou,S.(1988) A Fitness function for optimal life history in relation to density effects, competition, predation and stability of the environment. Ecol.Res.3:145-161.

[5]Fisher,R.A.(1958) The genetical theory of natural selection(2nd rev ed).Dover.(オリジナルの初版は1930年)

[6]木村資生(1960)『集団遺伝学概論』培風館.

[7]ド・ビア(1963)『ダーウィンの生涯』(訳)八杉貞雄(1978)/東京図書.

[8]巌佐庸[編](1997)『シリーズ・ニューバイオフィジックス10/数理生態学』共立出版.

[9]『初歩からの集団遺伝学』安田徳一/裳華房/2007


(旧題:なぜ適応度ではなく適応度関数/淘汰値というのか?)

著:佐藤信太郎
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