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(初版2012.8.27;微修正2014.10.16;更新2013.9.8)

武田徹の雑学は「思考の枠組み」か?




東電の福島第一原発事故(2011年3月)の後、あからさまに原発推進を唱える言論を 無批判に受け入れる人は少ないだろう。 では、一見、中立の言論についてはどうだろうか。中立だと自称する言論は、 理性的に見えるかもしれない。だが、実は歪んでいるものもある。 原発反対派をイデオロギー的だと非難するのが目立つ。

●NHK総合テレビの『大人ドリル』(2011/6/27)では3人のNHK解説委員が タレントの加藤浩次と渡辺満里奈に説明する形式をとっている:

山崎登(解説委員):残念なのは、30%近くを発電した原子力について好きか嫌いか とか、いるかいらないかとかいう、イデオロギーだけで論争が行われてきた。 生活にかかせないものを二者択一で論じちゃいけない(注5)
原発に関する論争の両側を批判しているように見えるかもしれない。 しかし原発の発電実績を強調しているから、この批判のターゲットは原発反対派である。 原発に反対してきた人達は、「嫌い」というイデオロギーだから反対して きた訳ではない。故・高木仁三郎が中心となり活動した 反原発の調査研究機関『原子力資料情報室』のWEBページには、 日本消費者連盟の出版物「安全な暮らし方事典」(2000年/2002年)を引用する形で、 脱原発を主張する理由が掲げられている:
(1)核拡散、核テロリズムの危険性がある。また、その防止のためとして 社会的自由が制限されたり、危険回避に必要な情報まで開示されなかったりする。

(2)大事故の危険性がある。

(3)平常運転時にも、環境の放射能汚染、労働者の被曝を伴う。

(4)数万年を超える管理を必要とする高レベル放射性廃棄物をはじめとして、 大量かつ種々雑多な放射性廃棄物を発生させる。

(5)エネルギー利用のメリットを得る者と危険性を引き受ける者とが、 地域的あるいは世代的に不公平である。

(6)プルトニウムを本格的に利用しようとすれば世界中をプルトニウムが動きまわる 事態となり、核拡散、事故の危険性を大きくする。他方、現実にはその蓋然性が高い ようにプルトニウムが本格的に利用できないとすれば、ウランの資源量は石油と 比べてすらはるかに小さく、原子力利用の抱える問題の大きさにまったく見合わない。

(7)原子力は電気しかつくれないためにエネルギーの利用形態を電気に特化し、 省エネルギーに逆行するとともに、電気が止まったら何もできない脆弱な社会を つくってしまう。

(8)原発では電力需要の変動に対応できないので、原発を増やせば調整用の 他の電源も増やすことになり、ますます電力化をすすめることになる。

(9)原発は事故で運転をとめることが多く、しかも出力が大きいため、 電力供給の安定性を脅かす。その対策として、低出力で運転しながら待機している 火力発電所や揚水発電所を必要とする。

(10)原発は大都市から離して建設されるために、超高圧の送電線を新設 しなくてはならない。経済的に大きな負担となり、鉄塔・送電線に大量の エネルギーを消費し、送電ロスを伴い、環境の悪化をすすめる。電磁波の害もある。 また、長距離送電は電圧・周波数の維持を困難にして、この点でも電力供給の安定性 を脅かす。

(11)核燃料サイクルの関連施設、原発のために必要となる他の電源や送電の費用、 研究開発費などをふくめた原発のトータル・コストは、きわめて大きい。 その経済的負担を軽減しようとすれば、定期検査期間の短縮など、安全性を犠牲に する対応策をとらざるをえない。

(12)以上のような原発の特性は、エネルギー計画から柔軟性を奪い、 エネルギー源の多様化を阻み、エネルギー消費を小さくすることや、 分散型エネルギー源を開発することを圧迫する。

(13)将来の大量エネルギー供給が強調され、エネルギー問題/環境問題を 本気で考えることの邪魔をし、エネルギー政策の意思決定から市民を遠ざける。

(14)電源三法交付金などにより立地自治体の財政に一過性の膨張をもたらし、 地域内に賛成・反対の対立を持ち込み、地域の自立を妨げる。

(15)情報の隠蔽や捏造、操作が(国内でも海外でも)常につきまとう。

●『毎日新聞』(2011/7/21)の「どうするエネルギー(7)」によれば 武田徹(ジャーナリスト)は以下のような主張をしている:
原子力の問題系は複雑だから、イデオロギー的なものから離れて、リスクやコストを 整理しながら合理的に選択する必要がある。推進か反対かだけの短絡、単純化が最も ふさわしくない領域が原子力だ。エネルギー政策は、多元主義が大事だ。
山崎正和は『毎日新聞』(2011/8/14)の書評で武田徹の 『原発報道とメディア』講談社現代新書(2011)を取り上げて良い評価を与えている:
より安全な新型原子炉も発明されているのに、それが導入されないのは反原発の世論 が強く、いっさいの新設は実現しにくいからだと、著者は冒頭から読者を驚かせる。 反原発派は原子炉に改善がありうる事実を認めないし、推進派は新型の導入を口に すると、現在の炉に問題があることを白状する結果になるからだという。 相互不信からメディアの情報が硬直している現状を憂慮する。

そもそも福島第一原発(GEのmark1)は“改善型”であった。格納容器を小さくして 原型よりも危険な構造に“改善”されたのはコスト削減が目的だった[1]。

元東京電力副社長は非公開の会合(島村原子力政策研究会)で原発はコスト削減が重要だと 述べた[15]:

原子力発電所の場合は資本費が相当高いんで建設費を下げることが一番重要なんです ねえ。だから大いにコストダウン。安全性と信頼性以外にコストダウンを大いに 図ってもらわないと。

反原発の後藤政志は、かつてコスト削減を理由にベントに備えるフィルターが設置されな かったことを批判している[14]。反原発の田中三彦は「本気で安全性を追求して いったら、原子力プラントはどこまでも重く大きなものとなり、とてつもなくコスト の高い装置となるでしょう」と言っている[14]。

このように、 反原発派が原子炉に改善がありうる事実を認めない、というのは本当ではない。 ただし「安全な原発はない」とは言うかもしれない[14]。そして、それは原発推進派 でも、まともな専門家なら言うことである。

元スイス原子力会議副議長ブルーノ・ペローの発言[12]:

絶対に100%安全な原発などないのです。 私が日本に行き電力会社と会談したとき「スイスでは安全設備を追加している」 「そんなにコストもかからないから導入したら」と勧めたのですが 日本側はニコニコしながら「私たちには必要ありません」「アメリカのメーカー も何の指示も出していませんから」と答えた。
日本と同じく米国製の原発を持っているスイスの原発関係者に対してさえ、 「日本の原発は安全」と言っていた日本の電力会社の異常さ。原発反対派に 対抗する宣伝としての「安全の強調」というのでは説明がつかない。

スイスは福島原発事故から二ヶ月半後には、危険対策のコストが今後上昇する という予測を理由に、段階的に原発を廃止することを決定した。 しかし日本では原発推進派が脱原発に激しく抵抗している[13]。

●武田徹の『「核」論:鉄腕アトムと原発事故のあいだ』中央公論新社(2006) はイライラする本だ。なぜイライラするのか。たとえば、普通は2〜4ページの 「はじめに」の部分が16ページもある。これには原発ではなく憲法制定時の ことがダラダラと述べられている。真偽について疑いが生じる記述がある上に雑学 で水膨れぎみの文章(注4)には付き合っていられないので、 この本の一部分だけ検討してみた。

【武田徹の高木仁三郎批判】の検討

原発事故の発生確率は非常に小さいという理論を高木は批判した。 「このような重なり合いが起こる背景には、必ず日常的な安全管理の甘さが 存在するのである」とヒューマンファクターについて高木は書いたという。 高木が『巨大事故の時代』(1989)を書いたことを武田は高く評価するフリを してから一転して、これを批判する:

事故がおきたから、志を新たにするとかはありえそうだ。ヒューマンファクター とはそうした動きをももたらす可能性がある。 反原発運動が事故がいかに起こりやすいかを強調するために、ネガティブな ファクターを強調するが、同じ論理がむしろ事故を起こさなくするうえで ポジティブにも機能するのだとしたら、それはやはり視野に入れるべきだろう。
武田は、事故が起きたら「心を入れ替えて」安全になる、と言って高木の事故論 を批判する。福島のような大きな原発事故が起きてからの反省では遅すぎる。 ところで、福島第一原発事故の後、原発推進派は改心しただろうか (注6)? 大飯原発は大規模な反対デモがあっても 「安全対策の計画がある」ということを根拠にして再稼働した。 「絵に描いたモチ」のように実質のない安全である。

原発のベント装置はスリーマイル島原発事故の後に“改善”する ことが国際的に勧告された。日本でもやったのだが、福島第一原発ではコスト削減 のためベントラインが建屋の空調系統の配管とつなげられてしまったので、ベントした 結果として建屋が爆発してしまった可能性があるという[2]。

「真剣な取り組みがなされてなかった」と原子力ムラの学者にさえ批判されている。 独立していない日本のベントラインについてスイスの原発関係者は「ありえない」と 呆れていた。日本の他の原発も福島第一原発と同じような配管だという。

これがスリーマイル島原発事故(1979年)が起きてから「心を入れ替えて」なされた 事なのである。

東海村JCOの臨界事故(1999年)で「心を入れ替えて」作られた各種の事故対策は 福島第一原発事故では全く機能しなかった。

武田は高木の言論を「科学ではなく運動だ」と批判する:

高木は、こう述べている。「日常世界のエネルギーは化学結合から生まれる。 私たちの住んでいる世界は原子核の安定の上に存在しているが、核エネルギーは 原子核の安定性を強いて破壊しており人間世界にとって非和解的である」

これはおかしい。地上に光と熱をそそいでいる太陽はまさに巨大な核融合炉である ことは今や多くが知っている。核エネルギーが自然の摂理に反するかのようにいう のは間違いだ。それは科学的な言説ではなく、反原発運動の正当性を訴えるための 運動の言説になっている。

普通の科学者でも高木が言ったことはごく常識的なことだと受け取るのでは ないだろうか。 太陽は非常に遠方にあり、さらに地球の磁場や高層の大気で太陽からの放射線は とてもマイルドになってから地上に到達する。太陽が核融合しているからと言って 核エネルギーが人間にとって安全などとはマトモな論理ではない。 高木は宇宙における核レベルのエネルギーが自然の摂理に反するなんて言っていない だろう。原発が生産するような雑多な放射性物質が人間の生活圏に存在するのは危険だと 言っているにすぎない。

【武田のゲーム理論】の検討

武田はゲーム理論の『囚人のジレンマ』を取り上げ、原子力エネルギーを巡る 状況が、これと等しい矛盾をはらんでいると書いている。武田は『原発を巡る 対立』のゲーム理論を作って示しているが、これはトンデモないデタラメである。 まず『囚人のジレンマ』とはどんな状況か武田の説明を見てみよう:

逮捕され、別々に独房に収監された囚人が、互いに相手は口を割らないと信じて 黙秘を続ければ犯罪が確定せず、両者とも無罪放免されるのに、実際には相手を 疑い、仲間に自分が売られることをみすみす待つのなら、自分から仲間を売って 司法取引に応じた方がましだと考えてしまう。その結果、両者とも罪が確定し、 懲役刑になる。なぜ最大の利益を得られない結果にみすみす至ってしまうのか、 それは人は利己的な生き物であるという前堤=利己心仮説が導く必然である。 相手は利己的であり、自分を裏切るだろうと疑ってかかる。相手を信じずに 自分の利益を最大化しようとすると、共倒れすら招き寄せる。
ゲーム理論では、プレイヤーと戦略という用語が使われる[7]。『囚人のジレンマ』 というゲームではプレイヤーは2人の囚人、戦略は「黙秘か/裏切りか」である。

武田が作った『原発を巡る対立ゲーム』で武田がプレイヤーとしているのは 「スイシン派/ハンタイ派」である。スイシン派の戦略は「推進するか/推進しないか」 であり、ハンタイ派の戦略は「反対するか/反対しないか」である (武田の戦略の表現を少し整理した。元の表現は 注2を参照)。

「スイシン派/ハンタイ派」は固定した特性(生れつきとか職業とか)ではないから、 プレイヤーではなく、戦略とすべき言葉である。 推進しないスイシン派とか、反対しないハンタイ派とか、武田の理論はプレイヤー や戦略の定義が駄目である。

本当は、原発が立地できるか/立地できないか、という『原発立地ゲーム』の主要な プレイヤーは決定に関与できる「電力会社・国」と「地元住民および地元自治体 (政治家)」である。しかも地元住民は一枚岩ではなく電力会社の利益誘導により 分断されうるプレイヤーである。高木仁三郎のような在野の学者は主要なプレイヤー ではない。

もちろん多数の学者をプレイヤーとした学者社会での『出世ゲーム』は考えられる。 戦略は「推進派になるか/反対派になるか」である。推進派になれば研究費は 潤沢で権力のあるポストにつけるが、反対派になれば干される、というような ゲームである。

ゲーム理論では、利得という用語も使われる。学者をプレイヤーとした 『出世ゲーム』なら研究費がどれだけもらえるか、などが利得としてゲームが 分析される。

しかし人間の意思決定に関与する利得は単純ではない。学者だって研究費が 多くもらえることだけが戦略を選ぶ唯一の基準ではない。そのような複雑な状況を 扱おうとする数理的研究もあるようだ[8]。原発立地問題は少なくとも地元住民に とっては、危険性と金銭と、複数の基準が関与する状況である。しかし武田は、 そのようなことを考慮している気配はない。

チェルノブイリのような原発事故が起きれば、住民意識として危険性の 基準は比重が大きくなる。また原発立地以外に生計が成り立つ地域では金銭基準は 比重が小さくなる。このように見れば、近年、原発立地が少なくなったのは立地が 可能な地域はもう原発で飽和しているからだと推測される。高木仁三郎のような 原発反対派の学者の言論などが原因で原発立地ができなくなったなんて考えられない。

武田が作ったゲーム理論の利得は異常である(注1)。 たとえば、ハンタイ派が反対戦略をとり、 スイシン派が推進戦略をとった場合の利得は、ハンタイ派が「人類の破滅」、 スイシン派も「人類の破滅」となっている。本来、利得はプレイヤー がその戦略を選択した場合に「プレイヤー自身」が得る損得を表すものなのに。

武田は、ハンタイ派が反対して、スイシン派が推進する組み合わせでは、 原発の増設ができなくなるという。 現実は原発建設に反対運動が起きるようになったのは1970年代からだが[10]、 1970年代以降日本では新増設が加速した[9]。

住民の反対運動で 原発の危険性を争った裁判は15例あるが、危険性を認めない判決が確定してきた。 その裏には原発訴訟については「行政庁の判断を尊重する」という、最高裁の会議が 決めた方針があった[11]。反対派住民は負けることが決まっていた裁判を戦った のであった。

武田は地元への交付金について書いてはいても、交付金などを無視した 非現実的なゲーム理論を提示する。 そして「原発が増設できない」のは問題だとしている。 武田は以下のように論じる(武田の文章と利得表から整理した。元の表現は 注3を参照):

「ハンタイ派の主張は既存の原発でも危険だ」というのだから原発増設が できない状態のハンタイ派の利得は「人類の破滅」だ。

「スイシン派の主張は既存の原発では不足だ」というのだから原発増設が できない状態のスイシン派の利得は「人類の破滅」だ。

結果は「共倒れ」だ。

社会には賛成するグループと反対するグループが鋭く対立する問題はいくらでもある。 賛成派と反対派がいれば必ず膠着状態になるという訳ではない。賛成派が勝つ場合 もあれば、反対派が勝つ場合もあり、膠着状態になる場合もある。武田は賛成と反対の 主張の組み合わせだけで自動的に膠着状態になるとしているが、そんなことはない。

武田はプレイヤーが主張した予測が、その通りに実現するものとして論を進めている。 社会における主張には、嘘、誤認、宣伝、ナントカ神話…なども含まれるから プレイヤーが主張した予測が実現するとはかぎらない。

武田はプレイヤーの主張をもとに両者の利得が「人類の破滅」だと曲解して 同じ言葉を使っているが、その中味は全く違う。電力が足りないくらいで 「人類の破滅」など起こらない。原発反対派が「既存の原発でも危険だ」と主張するなら、 「危険を減らす対策をしろ」という主張もありうるだろう。

このように武田のゲーム理論はデタラメである。

●武田徹は『東京新聞』(2012/4/29)の書評で[糸圭]秀美の『反原発の思想史』筑摩選書 を取り上げ、良い評価を与えている:

日本の反核市民運動は第五福竜丸被爆事件で緒につく。その時点では反核兵器 に留まっていた。今でこそ脱原発運動に名乗りを上げる著名人の多くが原子力 平和利用を推進する立場だった。

変化は中ソ対立によって訪れる。米ソが原子力平和利用技術の供与によって東西の 先進陣営を束ねている体制に毛沢東が異議を唱える。この毛の批判を新左翼活動家が 「誤読」した結果、日本に反原発という思想が萌芽したと著者は考える。

日本の反原発思想は、全共闘運動が沈静化した後、「反近代」を共有する 「ニューエイジ」思想の中に移植され、旧来の左翼運動と袂を分かった 「ニューウェーブ」を自称する運動に結実する。

しかし、その運動には弱点があると指摘する。公共性の概念より生活上の安全を優先 する姿勢は、他者の危険を顧みない独りよがりに至る。脱原発市民運動は、国内の 脱原発は求めるが、第三世界への原発輸出には問題意識を持たない。

この手の言論は煽動者がよく使う手段である。たとえばフェミニズムや性教育を マルクス主義だと批判していた右派言論人がいた。フェミニズムや性教育を進める 人の一部にマルクス主義者がいたかもしれないが、全体がマルクス主義なんてこと はない。一部分を拡大して全部だと宣伝するのである(注7)

私は毛沢東の思想に興味を持ったことは全くない。しかし、原発の仕組みを知った 中学生の頃(昭和40年代初期)から、 これには反対であった。 理由は、お湯を沸かすだけなのに、 桁違いに大きいエネルギーを使うという技術は馬鹿げていると感じたこと、 放射性廃棄物の処理ができないことなどであった。地球温暖化が問題になって 「原発はCO2を出さないクリーンエネルギーだ」と宣伝しだした時には あきれてしまった。

また原発が小規模な実験段階で、全てを知る研究者が細部まで管理している段階で うまくいったとしても、実用化して一般化して非常に多くの人間が関わるように なると思わぬ人為ミスが生まれる可能性があると昔から考えていた。

東海村JCOの臨界事故はそのような例である。福島第一原発事故の後で蛍光塗料に 使われたラジウムが民家の床下から発見されたが、これも人間というデタラメな動物 が引き起こす同様の逸脱行動である。同じ理由から、食品保存のために放射線を使うこと には以前から反対であった[5]。世界中に原発や核兵器が拡散すれば自国でちゃんと やっても他国が失敗して被害を受ける可能性が増す。日本は原発を使うが他国は使うな とは言えない。

反原発の運動をしている鎌田慧(ジャーナリスト)は原発輸出に反対している[4]:

「脱原発」はいまの日本の重大課題だが、一方でベトナム輸出の話は進んでいる ようだ。自分たちが嫌なものを、他国に売りつける行為はモラルに反する。
鎌田の発言より前にも、反原発の立場からの同様な意見は、 新聞や雑誌にいくつも出ていた。脱原発派が原発輸出に問題意識を持たないと [糸圭]秀美が書いているそうだが、事実に反することである。

●池田信夫(経済学者)は、 『原発と日本人(100人の証言)』アエラ臨時増刊2011.5.15号/朝日新聞出版 で次のような主張をしている:

原発論争は、電力会社と政府は絶対安全といい、 反原発派はそれはウソだという、嘘つきとだだっ子の争いという構図が続いてきました。

それをリスクと経済性の評価でとらえ直す必要があります。 リスクを死亡率で考えると、原子力はそれほど危険ではないのです。

私は安全論争よりも問題は経済性にあると考えています。低コストエネルギー というのは偽りで、多額のコストがかかっている可能性が否定できないのです。

池田は反原発派を「だだっ子」と表現している。「だだっ子」という表現はオモチャを 買ってほしい子どもが店の前でひっくり返っている様子を思い浮かばせる。なんとしても 原発が欲しい電力会社にこそ相応しい表現だろう。

池田は「原発の経済コストが高い」ということが重要だと主張している。だが、最初に 『大人ドリル』の項で示したように、反原発の原子力資料情報室は「原発のトータル・ コストは高い」と前から主張していた。反原発の立場で「原発の低い経済コスト」を疑う 論者は他にも以前からいた[6][17]。

池田が依拠する原発の経済性分析は大島堅一によるものだ。大島は新聞で 原発脱却派として紹介されて、紙面で原発維持派と対決している[3]。 なぜ池田は反原発派を「だだっ子」と表現するのだろう。


■補足

(注1) 武田は利得という用語を使っていない。 使うとモデルのヘンテコさが目立つためだろうか? (もっともプレイヤーや戦略という用語も使っていないが)

(注2) 武田の戦略の表現を少しだけ整理した。元はおおよそ次のように書かれている。 「ハンタイ派は積極的に運動するか、あるいは反対運動をやめるかという選択肢を 持っている。スイシン派は原子力利用を続け、増設し、維持し続けるか、その 政策を放棄するかの選択肢がある」。

(注3) ハンタイ派が反対し、スイシン派が推進した場合の武田の元の記述は おおよそ次のようである。 「ハンタイ運動の妨害を受けて新規の増設は難しくなる。ハンタイ派の主張は既存の 施設だけでも人類は危機に直面するというものだから、スイシン派が推進を選んで いる限り新規建設を阻まれ、十分な核エネルギー利用が出来ない以上、人類の 未来は破滅に至ると考える」。「選ばれうる組み合わせは(ハンタイ派が反対し、 スイシン派が推進する)でしかなくなり、破滅をさけられない。まさに現在の状況 が膠着に至っているのはこの通りなのだ」

(注4) 武田の雑学的文章の背景が分かる発言が『毎日新聞』(2013/3/3)にあった。 開沼博による「気になる現場学」という連載の最終回(構成・鈴木英生)から抜粋する:

開沼さんの指導教員である吉見俊哉・東京大教授と開沼さんが尊敬する ジャーナリストの武田徹さんを招き、連載全体をどう意味づけられるか、 現場とは何かを論じ合ってもらった。

(武田さん)日本のジャーナリズムは、思考の枠組みを作る力が弱い。 私は枠組み作りを意識してきましたが、力みすぎて、哲学者らの 理論をすぐに引用したりして読みにくくなったと反省することも多い。

(開沼さん)デモなど、都会で目に付く「社会変革の兆し」にノリやすい人は多いかも しれません。しかし、「それだけでは問題は解決しない。ならば何があるのか」と 考えつつ、やってきました。

(開沼さん)「事件は会議室で起きてるんじゃない。現場で起きてるんだ!」という せりふがはやったのは、1990年代後半です。硬直した既存の体制への違和感、 官僚制批判や既得権批判とリンクしていた。この20年、「現場」は社会批判の 決めぜりふのように使われてきたが、その内実が問われることは少なかったのでは。 この言葉に今までと違う意味を持たせたいと思って取材してきました。

(武田さん)私も過剰な現場主義と距離を置きたい気持ちもあります。 現場に行ったからといって、本音や当事者しか知らない情報が簡単に 得られるとは思えない。

(武田さん)今、開沼さんへの支持は脱原発運動への反発としてあり得ている面がある。 脱原発が「予言通り」縮小した先に開沼さんの立ち位置が残るかは未知数。

武田徹の文章は雑学で水膨れしていると思っていたが、 本人は「思考の枠組み」のつもりらしい。 武田徹は、原発反対派についてイデオロギー的だと批判してきたが、 「思考の枠組み」という表現で、自分自身がイデオロギー優先であることを 表明している。しかも「現場」取材に価値を認めていない“ジャーナリスト”である。

(注5) TV番組に出演した政治家が原発について「私は中間派です」と発言したという。 「追及が足りなかった」と番組のアナウンサーが反省を述べた。 それに関して元NHK記者の池上彰がコメントした[16]:

作るのか作らないのか、維持するのか維持しないのか、二者択一でしょ。 原発に関しては。
(注6) 事故をおこした東電でさえ改心していないようだ。 福島第一原発事故の本質は、後で生じるかもしれない危険の対策よりも、 目の前のコスト削減を重視する経営原則が貫かれてきたことにある。それは事故後も 変化していない。実例がTBSテレビの『報道特集』(2013/8/31)や、 『東京新聞』(2013/9/3)の記事にあるので以下に要約する:
地下水と原子炉建屋を遮断する工事が民主党の馬淵澄男・首相補佐官の下で計画され、 2011年6月13日、14日に記者発表を準備していた。しかし6月28日に東京電力の株主総会 が開かれるので1000億円の新たな債務発生を避けたい東電が政治的に巻き返したと 見られる。馬淵案の発表は見送られ、2011年6月27日、馬淵は更迭された。 東電は2011年10月、原子炉建屋より海側の遮水壁でのみ対応すると発表した。

地下水は原子炉建屋の山側から流れてくるから汚染水は増え続け海へ流出した。 急造の汚染水タンクが大量に造られたがタンクからも汚染水が大量に漏水している。

現在、計画されている原子炉建屋を囲う凍土壁は、馬淵案を作る時にも検討されたが 却下された工法である。

東電が凍土壁の計画を持ち出したのは、以前に拒絶した馬淵案をそのまま 復活させるのはメンツ上、具合が悪いからではないだろうか?

※追記(2013/10/23):『週刊金曜日』(2013/10/11)の記事(横田一)は以下のように 分析している。

凍土方式は研究開発段階にあるので国が鹿島に直に発注するので東電への税金投入に 当たらない。在来工法による遮水壁は研究開発ではないので、東電への税金投入になる。 東電へ税金投入されると東電破綻処理の議論が再燃するのは確実。それを避けるために 凍土方式が採用された可能性が高い。

(注7) 『東京新聞』(2013/9/26)には、反原発運動をしたキッカケは、1956年に手にした本 『第三の火−原子力』だ、という人(80歳、福島県)の話がある。 その本には「放射能は今の技術でおさえられるか分からない」と書かれていたという。


■参考資料

[1]NHK教育テレビ(2011/8/14)『ETV特集:アメリカから見た福島原発事故』

[2]テレビ朝日(2011/12/28)『報道ステーションSP』(メルトダウン5日間の真実)

[3]東京新聞(2011/10/27)

[4]東京新聞(2012/8/21)「本音のコラム」鎌田慧

[5]東京新聞(2012/8/20)「こちら特報部」(放射線照射食品の歴史)

[6]『決定版 原発大論争!』(1988/1999)別冊宝島編集部/宝島社

[7]『人間社会のゲーム理論』(1970)鈴木光男/講談社現代新書

[8]『多目的と競争の理論』(1982)志水清孝/共立出版株式会社

[9]東京新聞(2011/8/1)「ニュースがわかるA to Z」(原子力の歴史)

[10]『科学事件』(2000)柴田鉄治/岩波新書

[11]NHK総合テレビ(2011/7/6)『ニュースウォッチ9』

[12]NHK教育テレビ(2012/5/5)『ETV特集:世界から見た福島原発事故』

[13]東京新聞(2012/9/11)

[14]世界(2011/7)「座談会:安全な原発などありえない」 小倉志郎・後藤政志・田中三彦

[15]NHK教育テレビ(2011/9/25)『ETV特集:シリーズ原発事故への道程(後編)/そして“安全神話”は生まれた』

[16]テレビ朝日(2013/4/4)『池上×マツコ/ニュースな話』

[17]現代思想(2007/10)「原子力介護政策に根拠はあるか」吉岡斉






著:佐藤信太郎
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