charset=euc-jp
http://ffeck.tsuchigumo.com/

■HP蜘蛛夢■


(初版2006.3.14;微修正2014.10.16;更新2011.8.15)

改正教育基本法を破棄しよう!

(旧題:守るべき砦は憲法9条ではなく教育基本法だ!)



小泉政権の『郵政改革』というキャチフレーズと小選挙区のトリックで水膨れした自民党が 安倍政権で『教育基本法』を改変してしまった(2006年12月15日)。


■ライブドアの偽メール事件の議員の進退に関連して、民主党の国対委員長の渡部恒三は 潔さのシンボルとして白虎隊を例に出していた。

私の両親は福島県の出身だったので、会津藩の白虎隊の話や凄惨な絵には 幼い頃から触れる機会があった。私は、この話は大嫌いだった。

白虎隊は15〜17歳の会津藩士の子弟で結成された少年部隊で、 戊辰戦争(ぼしんせんそう)の際に城外の火事を、遠方から見て城が焼け落ちたと 思いこんで自刃(じじん)したのである。

(参考:政治的議論になっている靖国神社は戊辰戦争で死んだ官軍側の ために作られたものが元である。会津武士の末裔で戦後右翼の大物だった田中清玄は 靖国神社を長州藩の守り神にすぎないと批判したという。東京新聞/2006年8月29日)
日本の精神というと武士道だとかサムライなんていうのが民族の 誇りのように言われるが、武士がリアルな戦士であったのは戦国時代である。 武士道なんていう観念が形成された江戸時代の武士は官僚でしかなかった。

だから、リアリズムに欠けたサムライ像が形成されたのだろう。 白虎隊は本当に城が焼けたか確認する必要があったし、 城が焼けたり、殿様が死んだりしても、戦いに意味があるなら、 ゲリラ戦を続けるのがリアルな戦士像だ。

そして、この話から見えるもう1つの事実がある。 白虎隊にとって命を捧げるべき相手は天皇なんかではなかったという事である。 それが、明治維新後の教育体制によって、あっという間に『天皇の国・日本』に なってしまった。その教育体制の中心が教育勅語(きょういくちょくご)であった。

そして、かつて、そんなこと考えなかった大衆までが天皇のために 命を捧げることを強いられるようになってしまった。

教育基本法なんて、なんの役にも立っていないと思っている人は多いだろう。 しかし、それは戦後の政権を持ち続けた自民党が、それを使いたく なかったから十分な効力を発揮しなかったに過ぎない。そして自民党は教育勅語に 執着してきた。

教育基本法が教育勅語化すれば、自民党は喜んでそれを使いこなすだろう。 東京都の石原慎太郎の強圧的な教育支配に抵抗する教員の少なさを見れば結果は 想像できる。

江戸時代の観念的な武士道教育が非現実的な精神の白虎隊をつくりあげたように、 敗戦以前の教育勅語による教育体制は非合理的な精神を持つ指導層をつくりあげた。

おそらく明治維新で倒幕のために天皇を持ちだした連中には、 天皇は利用できる政治的な一要素くらいの現実感覚はあったのでは なかろうか。

しかし、その後は、指導層になるような人間もまた教育勅語体制で育った。 合理的精神は天皇の権威という非合理的精神に押さえこまれて、 第二次世界大戦での日本の惨めな崩壊の結果をもたらしてしまった。

そもそも、近代化すべき時期に、時代錯誤の苔むした天皇なんて持ちだした のが明治維新の大間違いであった。

本来、天皇は織田信長あたりが滅ぼしたとしても不思議ではなかった。 江戸時代でも、荻生徂徠が生前にしたため死後に吉宗将軍に差上げた書状に 「京都朝廷をつぶして天下を取り給え」とあったという(毎日新聞/2004年6月6日)。

倒幕派は尊皇攘夷だったはずなのに、なぜ開国しなければならなかったか。 欧米の近代の力を見せつけられたからである。近代の力とは科学的合理主義の 力である。

アメリカも日本も科学は輸入から始まった。しかし、日本はアメリカより大幅に遅れた。 天皇制の権威主義の国家をつくりあげたからだ。 その天皇制の権威主義のなかで科学や技術の位置は低く置かれた。

明治4年の工部省の報告書で「事務官僚に比べて技術官僚は、その位置を卑ふし (低くすべき)」という表現がみられるという(「理系白書」毎日新聞科学環境部 /2003年)。こういう日本の姿勢は現在も継続している。

逆に、 米国は1957年、大統領の科学補佐官のポストを新設した。 それには大学の学長クラスが就任する。博士号を持つ約40人を スタッフに抱え、ホワイトハウスに部屋を持つ。 頻繁に科学技術ニュースや政策を大統領に進言するという。

自民党は教育基本法に宗教教育を入れるだけでなく、憲法改変でも、 政教分離を廃止したいと考えている(毎日新聞/2004年5月30日 )。 その目指すものは敗戦前の天皇制国家であろう。

廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)を思い起こせば分かるように、 日本の天皇制原理主義者はアフガニスタンの仏教遺跡を破壊した イスラム過激派のように有害である。


■追記2006年3月19日:「日本は天皇を中心とする神の国」という発言で悪評を 得た自民党の森喜朗は、教育勅語にはいいところもあった、と教育勅語への執着を 示す発言もした。じゃあ、教育勅語のどこが悪かったのか述べたことがあるの だろうか?そういう発言をしたという報道を私は聞いたことがない。

その自民党の森派で教育基本法の改変について、義務教育の9年という年限を削除して、 義務教育の期間を、幼児教育から小学校までとする案が検討されている (東京新聞/2006年3月19日)。

これは社会の階層化を進め、そして下層階級の教育環境を劣化させて階層を固定する 政策である。支配する側には都合がいいだろうが、そんな日本で他の国に対抗できる と思っているのか?

高校の義務教育化(こちらも非現実的)を要求をしている勢力もあるので森派の案が 実現するとは思えないが、教育勅語に執着している勢力の社会観をよく示している。

敗戦前の日本が彼らの理想なのだ。

■追記2006年7月7日:東京新聞(2006年7月2日)によれば、 大阪の私立幼稚園で教育勅語を暗唱させている。

■追記2006年3月23日:読売新聞(2006年3月23日夕刊)の植田滋による 連載コラム「宗教と国家(2)」に、宗教学者・磯前順一の言葉が次のように 紹介されている。

現在の天皇制は明治以降に形成された「創られた伝統」であり、 天皇も明治初めにはほとんど民衆に顧慮(こりょ)されない存在だったが、 やがて現人神(あらひとがみ)になった。
■追記2006年3月25日:読売新聞(2006年3月24日夕刊)の植田滋による 連載コラム「宗教と国家(3)」に、西尾幹二の主張が紹介されている (『諸君!』/2006年4月号)。
天皇の制度にとって大切なのは歴史ではなく信仰である。
この現代においてもまだ合理主義を否定して国民に信仰を押し付け、 日本を宗教国家にしようという天皇制原理主義者がいるのである。

■追記2006年3月28日:自民党は以前から教育基本法に『愛国心』を入れようと してきた。 テレビの討論番組で司会者の田原総一朗が、国を護るために命を捨てるつもりが あるのかと社民党の福島瑞穂に詰問していたことがある。

こういう発言は、根拠なしに発言者を愛国者の位置に置き、相手に非愛国者の 烙印を押す卑劣なアジテーターのすることである。

外国の軍隊が『自分の国』に攻め込んできたら、国民一人一人が国を護るために 最善をつくすのは当たり前である。

しかし、具体的に何が最善であるかは、状況によって異なる。 同じ程度以下の軍事力の敵なら命懸けで戦うことで撃退できるだろう。

圧倒的に強力な敵に正面から戦いを挑むのは最善ではないかもしれない。 場合によっては全滅させられるだろう。 そんな戦いをさせる指導者がいたとしたら、 自己満足のために国民を犠牲にする犯罪者である。

このような場合は、恭順の意を示して、時を待つか、 あるいはゲリラ戦をすることになる。 また、他の国に逃げることもありうるだろう。

国家と個人との関係には色々な状況がある。 国家が強権的、独裁的な様相を帯びて個人を抑圧することだってある。 フセイン独裁のイラクには、米国のイラク攻撃を望んだイラク人がいた。

日本の小泉政権は、イラクを攻撃した米国を支持した。その日本に所属する 田原総一朗は、米国のイラク攻撃を支持したイラク人を愛国心がないと 非難するのだろうか?愛国心のあるイラク人なら、米国を助けるためにイラク にいる自衛隊を攻撃すべきだと考えるのだろうか?

同じことは昔、日本にもあった。 軍国主義だった日本には、軍国主義からの解放を願って、アメリカによる 日本攻撃を望んだ小説家・永井荷風がいたのである(朝日新聞/2005年8月13日/ 「半藤一利さんがつづる戦争」)。

永井荷風の日記『断腸亭日乗』の昭和16年6月18日には、 中国での日本兵の残虐行為の噂を記録し、同年6月20日には、 日本が武力をもって隣国に侵略することに怒り、 「米国よ。速(すみやか)に起ってこの狂暴なる民族に改悛の機会を与えしめよ」 と書いてある。

確かな歴史観をもち、リアリズムで情勢を把握をしていた 永井荷風を、田原総一朗は、非国民と非難するのだろうか?

一方、世界情勢に対する無知と希望的観測と狂暴さで突き進んだ軍部指導者は、 彼らの面子と天皇制の維持が保証されないからと日本の降服を遅れさせた。 そのため原爆を落され、ソ連の参戦を招き、日本国民を全滅させそうになった。

他人に命を捨てさせるような愛国心を要求しておいて、 勇ましいこと言っている人間は、いざとなると狡く立ち回ることも あるのだ。

■追記2006年5月15日:TBSラジオの討論番組アクセス(2006年4月5日)で ナビゲーターの女性は教育基本法のせいで、日本人は個人主義になり、 君が代や日の丸に反対したり、学校で「頂きます」と言わないように指導してる、 と発言した(実際は逆で、金を払っているのだから子どもに「頂きます」と言わせるな と学校に要求した変な親がいたという投書が永六輔の番組にあったらしい)。 この女性は大阪で報道記者の経験もあったという。

しかし、 東京新聞(2006年5月14日)の記事で、英国のデーリー・テレグラフの ジャーナリストは、日本の会社では誰も有給休暇を使わないことについて、 「日本人はもう少し個人主義になったほうがいい」と言っている。

同じ記事で、韓国のソウル新聞のジャーナリストも、日本人は国家とか社会とか、 自分が属する集団を重視していると感じ、個人が集団の犠牲にされることがどの国よりも 多いと思う、と言っている。

■追記2006年5月16日:なだいなだ『神、この人間的なもの−宗教をめぐる精神科医 の対話−』(岩波新書)は宗教、愛国心、ファシズムなどを神経症のような精神病と 関係があるとしている。

B「なるほど《われわれ日本人は》といってる人間は、自分を他と結びつける ための日本を欲しがっている。つまり日本を宗教にしているというわけか」
(略)
T「簡単なことだ。集まるとこころがほっとする。今の流行では癒しだが、 一種の酔いだな。それが、人間を孤独の不安から救う。孤独こそが現世の地獄 なのさ。人間はわれわれと呼べる仲間がほしい」
(略)

T「二十世紀は、先進国では、神が消えた世紀だ。宗教から人類が解放された時代 だった。そう見ていいだろう」
(略)

B「そういえば、おれたちは死ねといわれれば、死にかねなかったな。 実際特攻隊になって出かけたものもいた」

ぼくがためらっているとTはいった。
T「そうさ、神が死んでも生きのびた宗教というのは、おれたちの体験したような 集団的狂気さ。おれはそう考えている」
(略)

B「ファシズムも宗教だった」
T「もちろんさ。それも狂信的な新宗教だった」
B「おれたちはその狂気に、癒されていた?」
T「おまえは感じなかったかね。正直に白状しろよ。おれはあの狂気の只中で、 ある種の幸福を感じていたよ。一種の酔いだね。自分たち日本人は優秀である という優越感。(略)」
(略)

T「その宗教がまだ一部の人には生き残っている。国のために死ぬことが《幸福な死 であること》の象徴化が靖国さ。(略)」
■追記2006年5月17日:入江曜子は東京新聞(2006年5月8日)で、 自民党の「教育基本法改正案」について、つぎのように書いている。
1966年の中央教育審議会の「期待される人間像」を源として40年保守勢力が 侵食してきた集大成である。復古であることは「期待される人間像」 と照合すれば一目瞭然だ。既に「心のノート」で家、郷土、国という帰属意識を 感覚的にすりこむレールを敷いている。家イコール国家という擬制のもとに 愛国心を植えつけ犠牲を強いた戦前の国家に行き着く路線だ。
■追記2006年6月6日:東京新聞(2006年6月2日)に教育基本法の制定時の事情が 紹介されている。

当時、制定に関った文部省の学校教育局長だった日高第四郎は

「押しつけとか米服従とかいうのとは違う」
とよく言ってたという日高の二女の証言がある。 また日高本人も以下のように記している。
「多くの人は、アメリカ人におしつけられたものであると、 考えているように思われます」

「わたくしは、当時現場にいたもののひとりとして、誤解であることを知って いただきたい」

日高の下で学校教育法を立案した安嶋弥(ひさし)は
「ICE(GHQの民間情報教育局)は基本法については積極的ではなかったと思う。 日本側の発想だった」
と言う。 発案者は当時の文相の田中耕太郎だった。
「教育勅語の影響があまりに強烈だったから、それを打ち消すにはどうしたら いいかね」
教育基本法は、前文相の安倍能成(よししげ)、東京帝國大学総長の南原繁、 旧制一高校長の天野貞祐、芦田均らの教育刷新委員会により作られた。

■追記2006年12月17日:他人がどういう心や思考を持っているか本当に分かるのか? 愛国心がなくなったと言っている人は超能力でもあるのか? 君が代を歌わないから愛国心がないなんて言えない! 本来の愛国心は天皇とは関係なんかない。

全国の小学校長会の会長47人に対するNHKのアンケート(回答は42人) によれば、愛国心を評価するべきと答えた校長が45%もいた(15日のNHKニュース7)。 これこそが日本の教育の危機だ。

他人の心など分かるわけないじゃないか。そんなことできるなら、『いじめ』は すぐ防げるだろうし、犯罪者はすぐ発見できるし、裁判は簡単だ。

予想できることは、愛国心に合致すると勝手に決められた何らかの行動の強制だ。 江戸時代の『踏み絵』を課すのと同じような感性だ。教育ではなく支配だ。

■追記2006年12月17日:TBSラジオ(2006年12月15日)で宮台真司が愛国心に ついて話していた。

基本はこうなんですよ、民主主義といわれる国、とりわけ先進国では、 国は疑うんです…、国を疑う。政治家や役人がいう国益を疑う。本当に国益なのか?

国益を名乗るトンデモナイやつらが、 『私』を肥すために『公』を語るようなやからが、勝手に制度を改革したり、 若い人を戦争に送ったりするんじゃないか?国は信用ならないと考えるのが 市民社会の基本なんです。

愛国心は自らの郷土を守るために徹底して国を疑うことである。 『愛国心』を教育基本法に書いてもよいですが、それは革命権を徹底して教える チャンスが公に保証されることです。

具体的にいうと合衆国憲法修正第2条、武装権と言われていますが、これは 集団的抵抗権であって、合衆国政府が州の、あるいは市民の、権益をないがしろに するようなことをしたら集団的に武装蜂起できることを規定しているんですね。

自民党の政治家が、このような近代的精神を理解しているなどとは、とても思えない。

■追記2006年12月19日:E・O・ウィルソン『社会生物学』(1975)には以下のような 記述もある。

群淘汰は個体淘汰を強化しうるだけでなく、個体淘汰と対立して、打ち勝つこともある。 繁殖単位が小型で、平均的血縁が近い場合には、そのようなことが起こりやすい。 以上のことをダーウィンは知っていたのである。 Keith(1949)、 Bigelow(1969)、 Alexander(1971) らは人類の、 利他性、愛国主義、戦場における勇気などを、戦争によって遺伝的にうみだされた ものとみなしている。
愛国心(生まれ育った集団への愛着心や縄張防衛的心理)は教育しないと生まれないようなものではない!天皇への忠誠心は教育しなければ生まれないだろう。愛国心と天皇崇拝は違うし、愛国心に天皇崇拝は必要ない。

■追記2007年1月10日:愛国心を国民に強制する国家権力は、実は、国民を愛さない国家権力である。過去も、現在も、日本の国家権力は何回も何回も国民を切捨て、使い捨てていることを知るべきだ。

■追記2008年2月20日:先に、官僚制度のなかで理系が軽視されていることを書いたが、この国の権力層の科学軽視は初等中等教育にも反映されてきたようだ。

学習指導要領の改定のたびに理科の総時間数が減少してきた。小学校理科では、1960年度に630時間だったのが、1998年度には350時間に減った。中学校理科では1960年度に420時間だったのが、1998年度には290時間に減った。実時間だけでなく割合で見ても減少している。

教員養成大学の入試制度の改変や教員免許制度の改変により、最近の小学校教師は中学校の理科に毛が生えた程度の知識だけしか持たなくても教師になれてしまう(※A)。中学校教師も似たようなものだという。参考:「若者の科学離れを考える('04)」放送大学

一方では、武道だ(※B、※C)、君が代だ、宗教教育だ、愛国心教育だ、奉仕だ と言う。権力層の時代錯誤の程は底無しである。これでは日本の未来はボロボロだ。

(※A)補足2010年7月4日: 「小学校理科教育実態調査2008年」によると、理科の指導が苦手(やや苦手を含む)という教員の割合は、教職20年以上30年未満では44%だが、教職5年未満では63%に増えている。これに呼応するように高校生の工学部志望者数が、1986年に17.1%だったのが、2009年に6.6%と減少している(文部科学省「学校基本調査」)。参考:「池上彰タイムス 今、日本が危ない!」TBSテレビ/2010年6月27日

(※B)補足2010年9月8日: 敗戦前の日本でさえ、剣道と柔道が中学校の必修科目になったのは1931年からだ。軍国主義の時代の教育である。参考:「歴史は眠らない」NHK教育テレビ/2010年9月7日

(※C)補足2011年6月8日:「NNNドキュメント'11」日本テレビ/2011年6月5日 によれば、2009年度までの27年間に中学・高校の部活動と授業で110人が柔道で死亡 している。死ななかったが障害が残った中・高生は275人。 中学校の部活動での死亡確率は柔道が異常に多い(1998〜2007年度)。そんな中、 文科省は2012年から中学校で武道を必修化する。武道は柔道、相撲、剣道から 中学校が選ぶ。7割の中学校が柔道を選択するという。政権交代したにもかかわらず、 時代錯誤の教育が官僚により着々と進行している。

■追記2008年9月23日:教育基本法を改悪した安倍晋三は政権を放り出したが、右派による教育改悪の流れは止まっていない。『歴史評論』(2008年9月号)の「道徳重視の新学習指導要領と歴史教育」(久保田貢)によれば、歴史教育が道徳のもとに置かれたという。

教員養成課程の認定を受けている大学は、文科省の査察においてシラバスの点検がおこなわれるが、「教科書・参考書」項目で「学習指導要領」を必ず明記するよう指導される。教員養成課程の設置認可についても同様である。学習指導要領の学習を義務づけ、これを遵守しないと認定取り消し、認定不承認となる。

新学習指導要領の告示にあたって、文部科学大臣の談話が発表されたが、「道徳教育や体育を充実すること」とある。

これからは歴史の授業でも道徳教育が計画的に求められ、それがなされないと、場合によっては個々の教員が道徳推進教師などから「指導」されることになる。

学習指導要領を「法的根拠」として、教員が身分まで奪われる時代になったのは、東京都教育委員会による「君が代」処分の事例でよく知られていることだろう。

放送大学(2007年9月19日)の森川輝紀『教育の社会文化史('04)』によれば、明治時代、森有礼は「万世一系の天皇と共にあることで外国の侵略を受けたことがない事実に誇りを持つ」ことを愛国心の元手としなければならないとの結論を導き出し、身体訓練の方法によって忠君愛国の精神の形成を図ろうとしたという。

今、文科省と右派勢力が進めている教育干渉の中味は、あまりにも時代錯誤である。そもそも天皇のもとで徹底的に外国に敗けた事実があるのだから。

■追記2010年11月8日:来年度から新しい小学校教科書が使われる。『週刊金曜日』 (2010年10月22日号)の俵義文の記事より抜粋:

文部科学省は、改悪教育基本法に基づいて2008年に学習指導要領を改訂し、検定制度を 改悪した。新教科書は、この新指導要領と新検定制度によるはじめての教科書である。

安倍政権が改悪した06年教育基本法第二条の「教育の目標」は20もの国定の徳目を 規定している。新指導要領はその徳目をすべての教科で教えることを求めている(※)。 新検定制度は、検定申請時に「教育の目標」との対照表の提出を義務づけた。 そのために、小学校新教科書には、全教科の教科書に道徳・愛国心・公共の精神・ 伝統文化・奉仕の精神などが盛り込まれている。

この記事に例示された教育委員向け解説資料には、「算数の長方形と正方形」が 「畏敬の念」に該当するとされたり、「外国の長さの単位」が「愛国心」にこじ つけられたりしている。こういうことを馬鹿馬鹿しいと思わない、あるいは思っても それを言えない人々が教科書をつくり、教育を動かしている。合理的精神/批判的精神 とは遠い所にいるのだから、日本はズブズブと沈んでゆくだろう。

(※)補足2010年12月10日:右田裕規『天皇制と進化論』(2009)によれば、 「戦前の学校教育のなかで皇国史観の涵養が試みられたのは、修身・国史の授業だけに 限らない。さまざまな科目・学校行事を貫くパラダイムのようなはたらきを皇国史観 は果たし続けていく」

■追記2011年8月15日:道徳教育の強化を声高に言う人々が道徳的であることはない。 私が市立図書館から、借りてきた雑誌の記事に右翼的立場からの落書があった。 公共の図書に落書をする人にどんな公徳心があるのだろうか。 落書されたのは『週刊金曜日』(2011年7月15日)の記事で、新学習指導要領の 愛国心を核にした道徳教育を批判したものだ。

←市立図書館の雑誌への落書

現在、「つくる会」系の教科書は2社から出ているが、その一つの自由社の歴史教科書の 巻末年表は東京書籍の2002年版の盗用であった(週刊金曜日/2011年7月15日、 東京新聞/2011年8月2日)。

「つくる会」が分裂したのは、内部での勢力争いで、怪文書騒ぎを起こした からであった(諸君!/2006年8月号)。


著:佐藤信太郎
メールアドレスは目次にあります。


●目次へ●