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■HP蜘蛛夢■


(初版2009.8.17;微修正2018.2.6;更新)

反応基準は新しい概念ではない





●動物生態学のある教科書(※)をパラパラとみた。 反応基準という概念について書かれていた。 その説明は後に示すとして、私が引っかかりを感じた文章がある。

「…最近では反応基準(reaction norm)と呼ばれていて(Stearns and Koella, 1986)…」
という部分と、
「…反応基準、あるいは遺伝子型−環境相互作用の研究は1990年代に入ってから生活史の進化の重要なテ−マとして、よく研究されるようになった」
という部分である。この文章では、反応基準(reaction norm)という概念は、 Stearns and Koella(1986)によって新しく提唱されたかのように感じてしまう。 この教科書を書いた人とは別の人だったと思うが、同じようなニュアンスの文章を 以前に雑誌で見かけた記憶がある。

※ 嶋田正和・山村則男・粕谷英一・伊藤嘉昭『動物生態学』海游舍/2005(初版1992)

●私が、この言葉を知ったのは昔、古本屋で手に入れた本でだった。 私が理学部生物学科の学生だったとき、夏休みで帰京すると神田の古本屋街に行った。 そこで、いい本を見つけたのだが、すぐ買う決心がつかなかった。迷っているうちに 売れてしまった。

アメリカの大学院に留学していた先輩が母校に立ち寄ったときに行なわれた小さな歓迎会 に私が参加した時、進化に関する本のことが話題になった。その先輩が例の本を名著だと いうのを聞いて買わなかったのを悔やんだのである。その本は数年後にやっと手に 入れた。

それは、Th.ドブジャンスキー『遺伝学と種の起原』 (駒井卓・高橋隆平、共訳/培風館:原著は1951年の第三版)である。 この訳本が出版されたのは昭和28年(1953年)だから、私が生まれた年のものである。 この本には「反応規格」という項目がある。

或る一つの遺伝子型が種々の環境条件の下に生じ得る表現型の全部を、その遺伝子型の “反応規格”norm of reactionという。

進化とは集団の遺伝子型の変化であるというのがもっとも一般的な進化の定義であろう。 環境の変化に伴ない表現型は一時的変異を起こすが、その際遺伝的変化が伴わなければ 進化は起らない。けれども実際進化で問題になるのは、生物の遺伝子型と世界の各地域 に存在する環境との相互作用の結果として生ずる表現型である。しかし、個体または 集団の或る環境での強弱や生死は、結局それらが持つ遺伝子によって決定される。 その際遺伝子はそれぞれの環境において生物の表わす発育の型に従ってその作用を発現 するのである。すなわち進化において変化するものは環境に対する反応規格であると いえる。

●ドブジャンスキーの本には反応規格の最初の提唱者の名前は書かれていない。 河野昭一・井村浩(共編)『環境変動と生物集団』海游舍(1999)で、河野昭一は、
…反応規格(reaction norm)ともよばれるが、この概念は古く、1909年にWoltereck によって提唱されたものである。
と書いている。さすがに古い人は知っている。実は、Stearns and Koella(1986)も "reaction norm"に関してWoltereck(1909)、Schmalhausen(1949)、Simpson(1953)、 Dobzhansky(1970)などを引用している。

追記(2015/7/16): この文章を書く際にチェックした遺伝学の用語辞典か何かには「反応規格」は 載っていなかったように記憶しているが、最近、大型書店で見たら「反応規格」が 載っている辞典があった。

田中信徳(監修)『遺伝学辞典』共立出版(1977)
King・Stansfield著(西郷・佐野・布山監訳)『遺伝学用語辞典(第6版)』 東京化学同人(2005)

●最近の生態学の本や論文では“reaction norm”を「反応基準」と 訳しているものが圧倒的に多い。normという単語を辞書で調べると、standardという 意味のほかに、patternという意味もある。あきらかに昔の 「反応規格」という訳のほうが適切である。 どういう環境で、どういう性質が発現されるかという「規格」を意味するのであり、 何かが達成される「基準」を意味するのではないからである。

※追記(2014/2/8):『生物学辞典(第5版)』岩波書店(2013)には「反応規準」で 掲載されている。金田一春彦・池田弥三郎(編)『学研国語大辞典』によれば、 「規準」は「(判断行為の場合の)模範となる標準。また、従わなければならない規則」 とある。criterionに相当する。




■私が大学に入ったのは昭和48年(1973年)。入学してしばらくしたら、生物学科の 4年生が中心になって学科を紹介する催しが行なわれた。教員や4年生がどんな研究を しているのか青焼のパンフレットをもらった。それを見ると、助手のT先生は 「生活環は個体群レベルの適応の表示」と書き、「ある種はどこまで生活環を変え 得るか、そしてどのような要因がそれを可能にするか、ということが、その種の存在を 知る上で大事なことであろう」と書いていた。卒業研究の紹介では、ある人は、山の 高度差で、同種でも生殖回数が違うことを調べていると書いていた。こういう課題は、 反応規格の概念に関係がある研究と言えるだろう。

助手のY先生は、植物の生活を、物質の生産、分配、消費再生産をもとに 解析していると書いていた。懇親会では数学モデルによって生活の解析をして いるというような話をしてくれた。私も動物でこういう分野の研究をやってみたいと 思った。当時、ふつうに目にするような生態学の本は少なかったから、実際の研究に ついて私のイメージは貧弱だった。モデルと言っても、高校生のころ読んだ 伊藤嘉昭・桐谷圭治の「動物の数は何できまるか」(NHKブックス/昭和46年)に 紹介されていた回帰モデルのようなものには魅力を感じなかったので、演繹的な 数理モデルと実際のデータで適応のテーマに取り組むというのは魅力的だった。

この懇親会の席ではなかったが、Y先生は、自分の研究をr/K選択の理論と関係が あると話したことがあった。r/K選択の理論は個体数密度という環境条件に応じて増殖率 が反応するパターンが環境の安定性に関連して自然選択で変化するというものである。 1970年代に盛んに研究されたr/K選択の理論は反応規格と関係がある研究だろう (実際には、そのように言われることはなかったのだが…)。

■このサイトの「適応度関数」に関する文章を書こうとして、文献を確認するために 昔の荷物をひっくり返していたら、意外なものが出てきた。わたしの記憶から 全く消え去っていた原稿である。研究室の先輩に見てもらった形跡はあるのだが、 投稿したのかどうかさえ、しばらく思いだせなかった。私は今、生態学の研究はして いない。その原稿は、やめる前にやっていたことの一つであった。おそらく92年から 93年にかけて書いていたものらしい。

題名は「体の大きさと成熟齡の可変性:生産過程に密度依存性を組み込んだ 最適生活史のモデル」というものである。

Stearns and Koella(1986)を引用している。彼らは表現型可塑性を環境の変化への 適応として研究しているが、私の原稿では、そうでない場合もあると書いている。 その形質に対する選択圧が強くないということで説明できる場合もあると。

Stearns and Koella は個体数増加率を適応度(自然選択で最大化される 集団特性)として数理モデルを作っている。わたしの原稿では個体数増加率はゼロ に固定されている。平衡状態で個体数増加率がゼロとなる成熟齢と成熟サイズの 組み合わせを複数の点として求める。その各点に対して、適応度関数(この場合は 資源消費能力×平衡密度)を計算する。適応度関数が最大となる成熟齢と成熟サイズ の組み合わせを推定する。そして、適応度関数が最大となる点の周辺で、成熟齢と 成熟サイズを変化させたときに、どちらの方が適応度関数に影響が強いか調べるので ある。影響が弱い変数は可塑的になるだろうという論理である。

実際の生物に適用できるか否かは別にして、密度依存性を考慮した適応度関数をもとに してどんな論理が可能か示してみようと思ったのであった。やっと思いだしてきた。 一応原稿は書いたのだが、適応度関数の山が平坦すぎる気がして、もう少し急峻に なる条件を探そうとしていた段階で中断したまま忘れてしまったのだ。ボケている わけじゃないのに、自分がやったことを、これほど忘れてしまったことに驚いた。



著:佐藤信太郎
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