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■HP蜘蛛夢■


(初版2020.11.25;微修正2021.10.22;更新)

書籍『鉄筆とビラ』「立高紛争」の記録1969-1970/同時代社(2020)に関連した私の記憶




●2015年に送られて来た同期同窓会の会報に、立高紛争を起こした生徒達が発行した 『立高新聞』(第113号/1970年9月1日)のコピーが載っていた。

上滑りで独りよがりの文章は何を言いたいのか分からない。だが、はっきり分かるのは、 彼らが攻撃したのは、日本共産党や教職員組合だったということである。 なぜターゲットが政権を持っている自民党ではなく共産党だったのか。

●1969年の朝日新聞の縮刷版を調べたことがある。

立高紛争が始まったのは1969年10月21日。その政治的背景は朝日新聞(1969年10月17日)の記事が 参考になる。記事によれば以下のようである:

知識人の中野好夫、吉野源三郎はベトナム反戦の集会を社会党と共産党も一緒にやろうと呼びかけた。

共産党は社会党系の新左翼を「共産主義を偽装した反共暴力集団」と批判していた。 ベ平連については「善意の人々がはいっているが、反戦青年委と共同行動をとるようになった。 共闘の対象にならない」としていた。

統一集会から新左翼の反戦青年委員会が排除された。

おそらく立高紛争は国際反戦デー(10月21日)の統一集会への新左翼による妨害だったのでは ないかと思う。

●立高紛争でバリケードを作った生徒達は初めは学校に何も要求しなかった(朝日新聞1969/10/22)。 誰かに指令されて行動を起こしたので何も要求がなかったのではないだろうか。


●私が立川高校に入学したのは1969年度。入学式で管理職の教員(教頭?)が 「思想を持つのは自由だが高校生が行動を起こすのは早い」という意味の話をしていた のを憶えている。すでに予兆があったのだろうか?

クラスの初めの印象は、ガリ勉ぽいのが多くて私には合わない感じがした。 しかし実際はそんなにガリ勉がいたわけではなく、授業も大学入試に特化したようなのは記憶にない。

生物部に入ったが、顧問は病気あがりで何もしないし、合宿のような催し以外では 皆で一緒に活動するようなことはなく部室や生物教員室での雑談以外は不活発であった。 部室は生物準備室にあり、その外には中庭があった。

中庭では休み時間に政治演説をしている少人数のグループがいたが関心を示す生徒は あまりいなかった。

●1969年10月21日の朝。ストライキを呼びかけるビラが配られた。 私の判断は、「ふだんから支持を受けていない彼等にストライキを呼びかける 資格などない」というものだった。しかし一人だけ走りまわって様子を見に行った 同級生がいたのを憶えている。

例の『立高新聞』の記事は都高教立川高校分会(教職員組合)が作った 「都立立川高校における異常事態の事実経過日表とその解説」という文書を引用している。

記事はこの引用を使って教職員組合を批判していた。

引用された文書の中に、集会に行った浅野教諭に授業予定のクラスの生徒が 「授業をして下さい」と直接要求したような記述があるが、私にとって、これは事実ではない。

生物の時間に授業が始まらないので私はクラスの当番か係を連れて浅野教諭を 生物教員室に呼びに行ったのである。そこにいたのは実験助手(=定時制の生徒)だけだった。

この実験助手が浅野教諭の指示だと言ってニホンザルの生態に関する教材映画を見せたのであった。 私は浅野教諭がストライキの集会に行っているなんて思いもしなかった。

次のクラスには伝達したような気がするが、他のクラスのことは分からない。

●クラス討論が行なわれた時に、生徒会役員について民青がどうのこうのと発言した同級生 がいたので、私は「やたらにレッテルを貼るな」と発言した。曲がりなりにも選挙で選ばれた 生徒会役員が民青だったのかどうか私には知るスベがなかったから。

●浅野教諭は授業を放棄した件で、その後の授業から外された。代理で生物の授業をしたのは 管理職(?)の知らない教員だった。教科書をなぞるだけの本当につまらないものだった。

浅野教諭は立高紛争の際に、雑誌に文章を書いて社会に興味を持たないガリ勉生徒を批判した。 立ち読みしただけなので何の雑誌か憶えていないが、ネットで検索したら 『文藝春秋48(2)』(1970)浅野虎彦「受験体制のひずみのなかで」というのが見つかった。

状況から見て、ガリ勉と見なされた生徒は浅野教諭を呼びに行った私ではないかと 思った。私はガリ勉じゃなかったし、政治に無関心ではなかった。

浅野教諭はベ平連の活動に関係していたと聞いたことがある。

●1969年11月17日、学校は生徒をロックアウトした。それまで話合いなどが行なわれていた という認識だったので、私は突然のロックアウトには反対で、学校正門まで出かけた。 すでに生徒が集まっていた。バリスト派と思えない野次馬的な同級生もいた。 中に1人、積極的にシュプレヒコールを先導している女子生徒がいた。 彼女は私の手を取り、スクラムを組んで浅野教諭のニックネームなどを叫んでいた。


●小林哲夫『高校紛争』中公新書(2012)によれば 1969年10月。立川高校の文化祭で古川杏子は有志と共に唐十郎の戯曲『由比正雪』を 演じたという。客席には唐が主宰する状況劇場の麿赤兒、四谷シモン、李礼仙がいたそうだ。

古川杏子は合唱祭では規定に反して創作の科白劇のような作品を発表したと同窓会の ネット掲示板にあった。

バリスト派の中心だった古川杏子という人物は私よりもずっと立川高校の生活を楽しんで いたように思える。

●古川杏子が演劇を発表した文化祭で、私のクラスの展示のテーマは「高校生と政治活動」 だったらしい(『鉄筆とビラ』64頁)。なぜか私逹数人は新宿駅に立川高校の評判や期待を アンケート調査するために行かされた。私は、自意識過剰で羞しいことだと思っていた。

学校群制度が始まり立川高校の東大進学数は以前ほど上位ではなくなりつつあった。 当時はクラスのトップレベルなら東大に合格できるようなイメージだろうか。 近年は立川高校から東大に合格する生徒がいない年もあるようだ。

私は後年、私立進学校で数年間、非常勤講師をしたことがあるが、 その当時の教え子はクラスの半数が東大に進学したそうである。 こういう学校に較べたら立川高校は受験体制の特別な進学校ではなかった。


【後日談】

■浅野教諭は、政治に興味を持たないガリ勉を批判した文書を雑誌に発表した。 受験体制の学校教育を批判したのだが、彼の息子は私達より8歳上で、国立大学付属中高から 東大の学部・大学院を出て、有名会社に就職して、関連会社の社長になった。 「受験体制」の勝者であった。

■私は90年代にストリップに魅せられて劇場に通った。ネットや雑誌で ストリップのダンサーの実力を軽視した文章を書く人がいるが、 すばらしい表現力を持つ踊り子さんは少なくない。

そんな踊り子さんに触発された照明係が自分も踊りたいと 休憩時間にカツラをつけて舞台で踊ったという。伊藤キムである。 彼は時々新聞の文化欄にも名前がでた有名振付家である。

伊藤キムが師事した舞踏家が「古川あんず」だという記事は読んだことがあったが、 これが立川高校の紛争の中心人物だった古川杏子だということは同期同窓会の会報に寄せた 当時の教師の文章で知った。



著:佐藤信太郎
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