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(初版2010.9.6;微修正2015.2.4;更新2014.10.2)

権威主義と米国への劣等感が歪めた日本



項目へジャンプ(小学校への英語教育導入補足1日本的組織の欠陥補足2/ 参考資料/)



小学校への英語教育導入



●学習指導要領の改訂(2008年告示)により、2011年から小学校5年生・6年生で 週1コマ(45分)の外国語(英語)教育が必修になるという。有害無益だと思う。 「使える英語」というのが中教審での議論のキイワードだったという[5] (補足Dも参照)。

「使える英語」というのは具体的には英会話のことだろう。今まで、中学から大学まで英語やっても話せるようにならないと日本の英語教育を嘆く声はあった。だからといって、小学校からやれば英会話ができるようになると思っているのなら大マチガイだ。

英会話ができない理由は明らかだ。方法が誤っているからだ。会話能力は瞬時の対応能力である。考えたり調べたりして5分後に話すなんてありえない。反射的にできなければならないのだ。それが出来るためには、楽器やスポーツの技を習得するのと同じような訓練方法を採用しなければならない。具体的には、毎日数時間、1カ月から2カ月、集中的に反復練習するようなコースが必要である。アメリカの大学で日本語を習って、日本でタレント活動しているパトリック・ハーランも大学の集中的な語学コースで習得したと話していた。

このようなコースで少し英会話ができるようになっても、使わなければすぐ蒸発してしまう。だから、小学校でやる必要はない。英会話の集中訓練は、高校、大学でやっても遅くはない。

私が大学生のとき、アメリカ人の研究者の講演を聞いたことがある。その中で「イーコゥシステム」が「イコールシステム」と聞こえてしまい、何のことか分からなくなってしまった。日本語で言えば「エコシステム(生態系)」のことである。日本人にとってやっかいなのはカタカナ化(日本語化)された英語である。英会話の集中訓練の際には、カタカナ化された英単語リストのチェックが必要だろう。こういうのは専門用語などに多いので、小学校からやるようなことではない。

●英文読解は、今までのような教育でもそこそこは成果をだせるだろう。ただし、翻訳書などの誤訳を取り上げた本も沢山でているくらいだから、簡単とは言えない。

ひとつ言っておきたいのは、英文の意味を理解することと、それを日本語に置き換える作業は違うということである。中学・高校の授業や大学の研究室の若手の勉強会などで英文和訳をやると、漢文に返り点をつけて読み下すのと同じような読み方をすることが多い。関係代名詞などを『〜ところの〜』なんて、日本語としてまともでない読み方がされる。構文を理解する上ではいいのだが、長い文章だと聞いているほうは、どこを読んでいるのか分からずイライラさせられる。

大学の研究室の若手の勉強会で、私の当番になったときに実験してみた方法がある。英語を日本語に置き換えず、そのまま読むというやり方である。卒研生なども参加していたので、読む前に難しい単語は説明する。そして単語の順番どおりに英文を読んで、必要ならばコメントをつける。このやり方は私の力不足か、成功とは評価されなかったようで、追随する人はいなかった。しかし、最近、ある学習塾が『英語を英語のまま読む』と宣伝していた。私と似た考えの人はいるようだ。

漢文に返り点をつけて読み下すのと同じような読み方を早い時期からしていると、 日本語への悪影響もあるような気がする。中学で英語の授業を受けていて、『one of the …est 〜』という類の英語表現に関して、一番なのに『one of』なんて、英語表現は変だなあと感じたことを覚えている。ところが最近では、普通の日本語の会話のなかで『最も…な〜の一つ』という言い方が聞かれるようになってしまった。昔は、日本語にこんな変な表現はなかったと思う。

●英作文は、ネイティブでも自由自在というわけではないようだ。アメリカの大学院に留学した知人が米人学生の英作文を添削したという話を聞いた。日本人が日本語で書いた作文でもひどいのがあるので、この話は不思議ではない。英作文は、かなり能力のある人の添削を高密度に受けないと上達しないかもしれない。文法の知識は必須なので、これも小学校からやってもしょうがない。

■追記(2010/9/20):新聞のコラムで松浦晃一郎(前・ユネスコ事務局長)はネイティブの語学教師に学ぶことの重要性を書いている[6]。

外国人学生11名と懇談した。大半は2〜3年間しか日本語を勉強していなかったが、 日本語で何ら支障がなかった。日本の学生で2年間英語を勉強して、英語を流暢に 話すようになれるだろうか。通常は不可能であろう。どうしてそのような差が 生じるのであろうか。彼らの一番の利点は最初から日本の先生について学んだと いう事。かなり早い段階から授業は日本語だけで行なわれるようになっていた。
なぜ政策を決定する前に、このような語学教師たちの意見を聞いてみないのだろうか? それとも聞いたのに無視したのか?

もう一つ言うと、クラスの人数が多くては、ネイティブの教師でも十分な教育 効果は得られないだろう。




●迷走してきた教育行政は、『ゆとり教育への批判』に応じて今回は、「言語力の育成」、「理数能力」、「外国語」、「基礎体力」を重視するという。その結果、授業時間数は増加する。

時間数が増加するのに公立学校では完全週五日制が維持される。 その上、小学校の高学年では新しく外国語活動が導入される。無駄で教師の負担になるだけだ。まったく不合理である。

現場では、なにが問題になっているかと言えば、教師が忙しすぎるという。その原因の 一端は観点別評価を始めとする成果主義的な書類づくりや[1]、会議や研修の多さにある らしい。今回は、またPDCAサイクル(Plan、Do、Check、Action)なる概念が喧伝され ている。工業製品をつくっているかのようである。教師がさらに書類づくりに忙殺され るのではないかと思う。

●実は、私は小学生の時に英会話を習ったことがある。教育ママという言葉が使われる ようになったのは私が小学生の頃だっただろうか。母親も影響されたのか、真似事を 始めたのである。外語大か国際基督教大かの学生に頼んで、私の同級生を数人 誘って、1週間に1回、我が家で英会話の学習会を開いたのである。しかし成果は あがらなかった。その様子を見て母が駄目だと判断したのか、教育ママの真似を するのに飽きたのか、我が家での英会話学習はすぐに終了になった。しかし、行政は 一度始めたら、めったな事ではやめないだろう。無駄だと結論がでるまで何十年かかる ことやら。彼ら中央官僚こそ形式的ではないPDCAを実行すべきなのである。

■追記(2010/9/27):外国語活動と称していて、科目とされていないのは、 成績をつけず、中学の入試科目にしないためらしい[11]。こういうのは反対をすり抜ける ための手口だと思う。小学校での英語活動は10年前から「総合的な学習の時間」 でやられてきたという。それが今回は必修になった。ということは次は科目にするの だろう。ところで、10年もやったのだったら結果は出ているだろう。英会話できるよう になったのかな?そういうデータをチェックして行動するのがPDCAじゃないの?

最近読んだ新聞の投稿欄には「英語の成績が学年1番だという中学2年生の姪が、英国人の 簡単な質問にも答えられなかった。学校には英語を母国語とする外国人の指導助手 (ALT)がいるのに」と書かれていた。

※再追記(2011/6/13):授業ではなく外国語活動とされた理由について「英語の免許を 持っている先生が5%しか小学校にいないわけ。免許法違反になっちゃってできない」 と評論家・尾木直樹が解説していた(日本テレビ2011/6/12)。


補足1



■補足A(2010/12/6):少し話はズレるが、英語教育の影響に関連したこと。 朝日新聞(2010/11/24)の『異議あり』から抜粋:
(聞き手):なぜローマ字で名前を表記するとき姓名をひっくりかえすのでしょうか。

(江利川春雄):「英語教育の影響が大きいと思います。英語教科書の日本人名の表記 を調べてみたのですが、西洋風が登場するもっとも古い例は1904年、日露戦争の年に 発行された国定教科書でした」「それ以前の日本製の英語教科書は姓−名の順でした」 「この本を見て下さい。『ミッチェル地理書』です。アメリカから輸入し、明治前期に 使われた地理の教科書です。日本人は『半文明人』と書いています。当時のエリート層 はこういう本で学び、自己認識しました。向こうに近づくことが自分たちを高めること になる、という思いがあったのではないでしょうか」

「国際交渉に携わる人たちは、軽々しく表記を相手に合わせては、スタートで半分負け ているようなものでしょう」「明治時代の西洋への卑屈さとアジアへの傲慢さが、後の 植民地支配や戦争につながっていったと思います」(※)

(聞き手):日本で発行している英文メディアは、大半が名−姓の順です。APECの 英文記事でも、中国や韓国のトップは姓−名の順なのに、日本の首相は名−姓の順 でした。

(江利川春雄): 「名前をひっくり返すことを定着させてしまったのが英語教育とメディアの仕事なら、 それを元に戻すのも英語教育とメディアの仕事だと思います」

「実は、中学の英語教科書が変わりました。日本人名は姓−名で表記しています。 国語審議会が2000年に姓−名の順とすることが望ましいと答申しています」

「小学校の先生にお願いがあります。小学校で外国語活動が必修化されます。 名前のローマ字表記を最初に教わるのも小学校です。どうか自覚的であってほしいと 思います」。

※ 江利川春雄の言う「西洋への卑屈さとアジアへの傲慢さ」は現在も週刊誌の見出し などによく見られる。「中国になめられる」という表現は頻出するが、完全に日本を なめ回しているアメリカに対しては「なめられる」という表現を使わない。

■補足D(2011/2/15):NHK教育テレビ(2011/2/8)の 『歴史は眠らない(英語・愛憎の二百年/第2回)』という番組によれば、 2000年の小渕内閣のときに提言された『21世紀日本の構想』で現在の英語学習に影響を 与えた提案があったという。それは「英語の第2公用語化」である。これを受け企業の 英語重視や英語教育の早期化が進行したという。

英語が第2公用語のようになっている国はある。それは英語圏の国に植民地にされた国で ある。英語教育を改善して英語を使える人間を増やしたいというならよい。 だが、英語を公用語にするというのは、自ら米国の植民地になりたいと宣言する ようなものである。

※追記(2013/7/28):日本には欧米に比べると少ないが自然科学でのノーベル賞 授賞者が数人いるのに、他のアジア諸国では(在米での授賞者を除くと)出ていない。 その理由を問われた白川英樹は次のように話した[70]。 「欧米や日本は母国語でサイエンスを勉強できることがあるのでは と思うんです。ソウル大学などをみると、固体物理の講義に英語のキッテルを 使っている。全部英語でやっている。タイ、マレーシア、シンガポールも完全に 英語でしょう。香港も英語。母国語で勉強するのと、よその言葉で勉強するのでは、 あとあとずいぶんちがってくるんじゃないかと思うんです」

■補足W(2011/12/26):NHK総合テレビ(2011/12/19)の 『大人ドリル』という番組が、小学校で英語が必修になったことを解説した。 この番組では3人のNHK解説委員がタレントの加藤浩次と渡辺満里奈に説明する。

山田伸二解説委員の意見にはあきれた。英語を公用語にするのはメリットがあると いう。日本語は「あいまい」で、英語は「論理的」だと言うのである。 他の解説委員が反論していたが、本当に愚かな認識である。

英語を話そうが、日本語を話そうが、論理的に考えない人は論理的に話せない のである。英米人が常に論理的だなんてありえない。 英語を話せば論理的になるなんてトンデモない幻想である。 よほど英語に歪んだ思いを持っているのだろう。

※追記(2013/7/28): 中高一貫の私立進学校で非常勤講師をしたことがあるので 同窓会誌が送られてくる。今年の会誌の中に、米国への劣等感が表われた文章があった。 70代のOBの医師が書いたものである。がん予防に関する文書を米国と日本のもので 比較提示して日本語が「あいまい」だと断じている。 しかし米国の文書は日本語に翻訳されている!同じ日本語なのだ。 米国のものは基準が「グラム」などで定量的に示されているが、 日本の基準は「ひかえめに」などと定性的な表現に留まっている。 日本語があいまいなのではなく、書いた人物の意識の問題なのである。

※追記(2014/2/4): トム・ガリー(Tom Gally)は科学における英語について次のように 述べている[72]。「科学にとっての問題は、英語の共通語化の問題は、 英語の多様性と不合理性に由来する」。「科学の共通語となった英語が科学研究に 向いていないことは忘れてはいけない」。

※追記(2014/5/6):篠原久典(名古屋大・院・理学研究科長)は次のような発言をした[73]。

日本語は花鳥風月を詠むにはいいのですが、テーマを論理的に扱うのは不得手です。 結論が最後にくる構成も論文に向いていない。その点、英語は結論を先に述べてから 理由付けしていくため、科学のロジックとも相性がとてもいい。

これは文の集合である文章と単独の文の特徴を混同しているウソである。 文章の前のほうに結論を示して、理由を後から述べるのは日本語でも英語でも可能だ。 文章の構成はどんな言語でも自由だからである。 論文の構成で結論を先に言うことが推奨されるのは、読みやすさのためであり、 ロジックの正確さの問題ではない。

一方で、日本語の単文は否定表現が後にくるので、最後まで聞かないと結論が分からない と言われることがある。これは文章の構成の問題とは関係がない。 さらに言えば、日本語は柔軟なので、一つの文中でも否定表現を前に持って来ること など簡単である。例文:「私が反対する教育政策は、効果が薄く、 他分野の学習時間を圧迫する小学校での英語必修化である」。 これを通常の語順で示すならば「小学校での英語必修化は、効果が薄く 他分野の学習時間を圧迫するので反対である」となる。 こちらは文意から主語が私であるのは明らかなので省略できる利点がある。

■補足AH(2013/7/21):TBSラジオ(2011/12/13)の『デイキャッチャーズボイス』で小西克哉は、「小学校の英語必修に反対だ」と述べた。「中学英語を増やすべき」、「集中してやるほうがいい」、「大学入試から英語を外すべきだ」、「高校英語は歪んでいる。中学は90年代から改革されている」、「高校は選択でもいい」、「大学では経済学部ならそれに特化した専門性のある英語をやるべき」などと話した。

■補足AI(2013/7/21):週刊金曜日(2012/11/9)の『風速計』北村肇より抜粋:

文化による侵略の中で最も重要なのは、言語だ。日本の植民地政策も日本語強要が柱の1つだった。孫崎享さんの『戦後史の正体』によれば、米国は日本の公用語を英語にする計画だったという。多くの政治家や官僚が米国の属国であることに疑問をもっていないのだ。
■補足AJ(2013/7/21):日経新聞(2013/1/8)の記事から抜粋:
英語の授業は原則、英語で教える。学習指導要領の改訂で 今春から高校英語が大きく変わるのを前に、教師が対応に追われている。
■補足AK(2013/7/21):東京新聞(2013/4/14)の『こちら特報部』の記事から抜粋:
『英語教育はなぜ間違うのか』などの著書がある言語教育学者の山田雄一郎氏は 「英語をしゃべれない先生が教えても、効果が出るわけがない」と問題の本質を突く。 山田氏によれば、語学を一定程度習得するには、週に30時間、40週(1年は52週)以上を 連続でやる必要がある。短期集中が効果的なのだ。
■補足AL(2013/10/25):TBSラジオ(2013/10/23)によれば、文科省は英語教育 の開始時期を小学3年生にすることを検討している。3年生と4年生は週に1〜2回、 5年生と6年生は週に3回にする。5、6年生は成績もつけるという。 2014年度の中央教育審議会に諮ると。

※何度も見た光景である。「なし崩し」は、この国の官僚や政治家などの手口である。 反対が強い場合は計画を一時遅延したりするが廃棄はしない。 反対意見に耳を傾けることはないし、異論に応答する気もない。 反対の圧力が弱まる時期を見て突進するのみである。 結果を見直したりすることもないから、この国は最終的にクラッシュするのである。

■補足AM(2013/11/16):中央公論(2013/11)で 鳥飼玖美子と斎藤兆史が小学校の英語教育について対談している:

(斎藤):英語教育方法は、過去、何度も試みては失敗だったとされたものも多い。 失敗したという史実があるにもかかわらず、政治家や役人がそこから学ばないから 明治期と同じように英語教育を「抜本的に改革」しては躓いているんです。 検証もしないで次に進もうとするのは企業ならありえない話です。

(鳥飼):これまでも私立一貫校の多くは小学校で英語を学ばせています。しかし、 途中から中学、高校に入学してきた生徒と比べて大きな差があるわけではありません。 個人差のレベルです。

■補足AN(2014/1/5):TBSラジオ(2013/12/13)によれば、文科省は中学校でも 英語の授業は英語で行うことを計画しているという。2020年度から実施するという。 こういう授業が成立するには前提条件が必要だと思う。教師の力量、生徒の意欲、 クラスの少人数化、授業時間の配置の集中など。

前出(補足AM)の雑誌で鳥飼は高校での「英語での英語授業」強制について、 次のように批判している:

(鳥飼):日本語を使わないほうが教育的効果が高いと教員が現場で判断すれば そうするでしょう。生徒の習熟度も考えずに一律に縛ると現場は混乱します。 わざわざ学習指導要領に書くようなことだろうかと思います。
私が子どもの頃は日本語を話す外国人が少なかったためか、テレビなどに日本語を 話す外国人が出てくると「日本語は難しいでしょ」と聞くのが常であった。今は、 日本人が「難しい」と自認している日本語を流暢に話す外国人は多い。 しかも大人になってから習得した人が多い。 むりやり英語の早期教育に突っ走るのはやめるべきだ。

■補足AO(2014/10/2):文部科学省の有識者会議は9月26日、報告書をまとめた[75]。

小学5年生から英語を正式な教科として教えることや大学の入学試験でTOEFLを 積極的に活用することを盛り込んだ。教科外の「外国語活動」を小学3年生から 始めるよう提言。授業は小学3、4年生では主に学級担任がALTと2人で指導し、 5、6年生では高い英語力を持った学級担任が単独で指導する方法を示した。 「英語教育推進リーダー」教員の指導の下、教員研修を実施して、指導体制を 強化することが必要とした。
この有識者会議の報告書は矛盾している。小学校からやらないと英語ができないと 思い込んでの改革なのに、教員は大人でも研修すれば英会話の指導ができるほどに 英語力が上がるとしている。 それができるならば小学校から英語をやる必要はないはずだ。


日本的組織の欠陥



●このような無理な形で小学校へ英語教育を導入するという不合理には、この国の 行政組織などでの意志決定システムの欠陥が表われているように思う。 上層部は現場を知らず、ただ命令(※)すれば実現するものだと 思っている。だから、その下の立場の者は、まともでない命令には、ちゃんと 仕事しているフリをするだけなのである。そのフリが時には 有害無益なこともある。仕事しているフリが通用するなら、それと同根の 各セクションによる独断専行が行なわれることがあり国全体を 泥沼に引きずりこむ[16][66]。

彼らは、まともなデータを基に議論したり、専門家や関係者の知恵を集めるという こともできないようである[15]。一部の専門家を審議会などに呼びはするが、それが、 妥当な決定にはつながらない。例えば、西洋史の専門家が審議会に関わると、高校で 世界史だけが必修になったりした。しかし、大学受験で世界史を選択する生徒が少ない ために、本当は世界史の授業をやっていないのに、やったフリをする高校も出現した。 こんなやり方で専門家を使うのは愚かである。問題点について関係者が討論を 通じて認識を深めることができないのか。なぜ道理というものを大事にできないのか。

※ 明確な命令ではなく、「ほのめかし」によることもあるようだ。 それが常態になれば、下位の立場の者は上位の意志を推測して「お先棒かつぎ」 をすることもある。

●思いだした話がある。90年代のことだったと思う。私がいた研究室に他の大学から 卒業研究の指導を受けにきた学生がいた。卒業して企業に就職してからもゼミなどに きたことがあった。その会社では、その卒業生が会議で上司などに異論を出したりする と他の社員に驚かれたという。異論を出すのは相手の人格を否定 するようなものと受け取られたらしい。その職場の社員は文科系の出身者が大多数 だったという。

私がいた研究室では、学問のことに関しては、上位の人間の見解に対してだって 欠陥を指摘することなど当たり前であった。そんな研究室を見ていたその卒業生は、 そうではない企業文化に驚いたのであった。その歴史のある有名な会社は、その後、 経営に問題が生じた。そんな企業文化を変えられなかったとすれば、駄目になるのは 当たり前だ。

文科系の社会組織って権威主義になりがちなのだろうか。日本の行政組織は 文科系が主流だ。かつて官僚社会の異常さについて本を書いたために、 ささいなことを口実にして懲戒免職にされてしまった厚生省の医系技官がいた[2]。 この本にも日本の役人の特徴として「先輩の仕事にを唱えない 」と書いてある。従来の方針を変えるということは、先輩のやってきた仕事に異を 唱えることだから、行政官としていちばん避けなければならない不文律だという。

こんな不文律があれば、いったん始まった公共工事が有害無益だと分かっていても 中止できないのは当然だ(公共工事に関しては天下りや、利権との関係もあるだろう が)。緊急避難で始めた減反政策も延々と続けられた[17]。

同じセクション内で上司に異論を唱えることができなくても、他のセクションや 同列の他派閥に対しては激しく異論を唱えることはあるらしい。それは、全体の状況と は無関係に自分のグループの論理や利益を確保するためである[17][18]。

●権威主義と命令の役所といえば警察である。この警察という 役所は仕事をちゃんとやったフリが得意である。その結果が冤罪である。 警察や特捜検察は被疑者が言っていないことを調書に書くこともあるらしい[7][8]。 しかし、裁判官は刑事裁判では警察・検察の主張を丸飲みするだけだった。 実質的に警察・検察が結論を出しているのだから江戸時代と同じである。 裁判制度の意味がない。既に死刑にされた人の中にも無実だった場合が少なくない 件数ありそうである[3][14][19]。それなのに日本は死刑制度賛成の人が多いという。 記者クラブ制度を通じて官僚にコントロールされたマスコミの報道のあり方に問題が あるのだろう(参照;補足B)。

秋葉原無差別殺人事件の後、警察は小さな刃物まで凶器とみなして市民から強制的に 取り上げたりしている[4]。たかが十徳ナイフと言え、思い入れがある品かもしれない。 しかも、あの事件の最初の凶器は小さな十徳ナイフではない。自動車である。 禁止するなら自動車だろう。犯人は秋葉原を頻繁に訪れたオタクではない。 その時だけ、自動車で乗り付けた派遣労働者である。それなのに警官にノルマを課して 市民に対して職質させているという。仮に事件以前から警察が同じことをしていた としても事件は防げなかったろう。現場の警官にノルマを課した警察幹部は、その上の 立場の人間に向けて、自分がちゃんと仕事をしているフリを見せているのではないか と思う。

■追記(2010/9/27):特捜検事の証拠捏造事件に関連した話。佐藤優が8年前に 自ら取り調べを受けたときに、西村尚芳・東京地検特捜検事(当時)がつぶやいた 言葉を書いている[9]。

怒鳴りあげて調書を取れば、だいたいの場合はうまくいく。しかし、それは筋読み がしっかりしているときだけ言える話だ。上からこの流れで調書を取れという話が 来る。それを『ワン』と言ってとってくる奴ばかりが大切にされる。
三井環(元大阪高検公安部長)は「もしかしたら無罪かも」という心証を抱えながら、 事前の筋書き通りに起訴した事件は「いくらでもあった」という。また、検察に 関して次のように話した[10]。
都合の悪い証拠を隠すことはいくらでもある。

取り調べの可視化だけではなく、押収証拠品の全面開示が不可欠だ。

■追記(2010/10/11):特捜検事の証拠捏造事件に関連した話。 落合洋司(元検事)の発言[12]。

どうしても誘導していく。決めつけてるような調べになりやすいですよね。

捜査方針が決まっているのに対してを唱えたりとか(すると)、 何を言っているんだ…(となる)。 主任検事とか副部長とか、そういう人が間違いないと言って上の決裁も受けている ような、それに対して、ああだこうだというのは怪しからんと。そういうので無理な 調書がどんどん取られていくのは恐いことだし…。(上司が)想定していたものと 実態のズレが大きいほど無理が起きやすい傾向がありますよね。

※ 資料をもとに事件の構図を主任検事が描く。主任検事は上層部の決裁を受けて 検事に取り調べさせる。上司の求める調書を取ることが組織の中での評価につながる という。そのため生の供述より膨らませた調書をとることがあると元検事(匿名)が 証言していた。

■追記(2010/11/22): 裁判所による令状請求のチェックは、捜査機関が権限を乱用 しないよう歯止めをかけるための制度である。しかし、これはフリだけで機能して いない。却下率は、逮捕状請求については0.047%であり、 捜索・差し押えについては0.022%でしかない[13]。

「公安事件では、すべて令状請求は通る」「裁判所は捜査機関に依存し過ぎている」 「マスコミが裁判所を批判してこなかった」(元大阪高検公安部長・三井環)

「令状を許可するのは簡易裁判所の判事で、チェックはしていない。捜査機関の側も 令状を出しやすい判事の日を見計らって請求していた」「多くの簡裁判事は司法試験 ではなく、裁判所書記官のような実務者が簡裁判事試験に受かってなる。このため 権力へのチェックも弱くなりがちだ」(元裁判官・生田暉雄)

どんなふうに権力の乱用がされているか。たとえば、野宿者の強制排除などを撮影した 作品がある映像作家が家宅捜索され、逮捕され、11日間拘束された。結果は起訴猶予 である。

何を口実に逮捕されたのかというと、運転免許証の住所が自宅ではなく事務所 だったこと(※ 仕事場で寝起きしていた)、賃貸契約の更新で連絡が取れなかった保証人の 名を継続して記載したこと(※ 不動産会社は了承していた)。

野宿者排除のような社会問題を作品にする映像作家は、国家を人間の身体にたとえる ならば、病気発生を警告する痛覚神経(センサー)のような役割を果たしている。 ところが江戸時代の精神に留まり続ける警察にはそれが理解できない。警察組織内で さえ、上司に異論を出すのがタブーなのだから、行政に異論を 出す映像作家は国家に敵対するように見えるのだろう。

■追記(2011/5/2):地裁、高裁における重要事件は、三人の裁判官が法壇に着く 合議制で行われるが、内実は違うという[20]。

「合議制といっても、実際は裁判長が絶対的な権力を握っています。ところが 裁判長は、事件記録などほとんど読んでいないのが実態なんです」(元・判事補)

ならば裁判長は、一体何に依拠して判決を構築するのか。

「もちろん、検察の論告です」

無罪判決を下せば、検察のメンツを潰してしまうから、裁判官は、 徹底して検察寄りの判決を下すことに腐心する。

「最近は、事件処理を迅速化しろという圧力が上層部から常に 加えられ、処理が停滞すると『無能』の烙印が押されてしまいますから…」

裁判所と法務・検察は、相当な規模の人事交流を行っている。裁判所の判事は数十人の 単位で法務省に出向しており、行政訴訟で国側代理人となる訟務検事にも就いている。 これは行政訴訟で裁判が国寄りの判決ばかり下す温床の一つと なっている。


補足2



■補足B(2011/1/11): TBSラジオ(2011/1/4)『Dig』は「権力」をテーマにした鼎談(神保哲生、金平茂紀、 下村健一)を放送した。

金平茂紀(TBS)は、「記者クラブでは各自のメモのすり合わせをする」 「他と違うことが恐い」「集団で動きましょう」「横並び」 「自分の意見を持つことが恐い」と記者クラブなどについて批判した。

「米軍のイラクでの無差別攻撃映像がインターネット上に流出したときにも 社内の議論は報道することに消極的であった」という。

こうしたことについて神保哲生は「メディアは国権側から見ていたら話にならない」と 述べた。

※ 国権側と見られているマスメディアは検察などがリークした情報をもとに 与党・政治家を一斉に攻撃したりすることはある。ということはマスメディアが 自分と一体だと思っている国権とは政権ではなく官僚機構なのだろう。

追記(2011/7/11):週刊ポスト(2011/7/8)で上杉隆は新聞・テレビの報道を 批判している。

記者が現場で徹底的に取材して、会見で質問して、メモを作るじゃないですか。で、 それがデスクとかに上がる。ところが上の方に行くと、別のところから政府の発表もの が来るわけですよ。いわゆる紙(資料)ですね。で、取材と紙とでまったく相反する ことが書いてあった場合、どっちを選ぶかっていうと、紙なんですよ。官僚の作った 紙がすべてなんです。自分たちの目の前で起こったこと、取材したことよりも、 官僚がいったことを信じちゃう。官僚がいったままに書いておけば、免責される からですよ。

週刊金曜日(2011/6/17)で、英紙特派員のデビッド・マックネィルは日本の原発報道を 批判している。

日本の記者クラブ制度では、大手新聞社やテレビ局が、政府や東電をはじめ、 経産省など行政機関から直接情報を入手できることになっている。そこではメディアは 見事に統制され、発表をそのまま書き、独自の解釈や推測ができなくなっている。

■補足C(2011/1/31):NHKスペシャル(2011/1/29)『精算の行方』は 諫早湾干拓事業(総事業費2533億円)について取り上げていた。 これも独断専行と、ちゃんとやったフリの一例である。

公共工事では環境アセストメントが行なわれる。 諫早湾の干拓事業では諫早湾に関する調査データをとらず、 他の海の資料をもとに、専門家に推定(想像)させた報告書を作らせた。

しかし、この『環境影響調査報告書』の内容は 「赤潮発生や魚類などへの影響あり」と警告するものであった。役人は「問題はない」 という逆の結論の『環境影響評価書』を仕立てあげて、漁民に補償契約をさせた。 湾の閉め切り後に漁は激減した。

この番組では、関係した政治家や漁民や農民は出てくるが、役人は顏も名前も 出なかった。

■補足E(2011/2/15):異論を抑圧する権威主義は、それを受けいれる多くの 人間がいてこそ成立する。この国に充満する体制追従を示す例が、 東京新聞(2011/2/3)のコラム『デスクメモ』(牧)にあった。

約20年前のこと。PKO派遣で反対デモがあった。
(取材に行く後輩記者)「デモって違法行為ですよね」。
(当時のデスク)「えっ(絶句)…憲法上の権利だ!」。
10年後、渋谷。デモ見物の若者がやはり「法律違反」と口にしていた。 憲法も心に宿らなければ、ただの紙切れにすぎないと痛感した。

追記(2011/6/27):週刊金曜日(2011/5/27)の中嶋啓明による記事より抜粋。

渋谷で5月7日に行われた反原発デモで、不当逮捕された男女2人のうち男性は18日、 釈放されたものの、女性は10日間の勾留延長が決まった。デモの主催者側によると、 大量の機動隊員、警察官を配備して参加者を威圧し、デモの進行を妨害するだけでなく 参加者らを小突きまわすなど暴力を繰り返した。それをチェックすべき検察、裁判所 もまた、見て見ぬふりをし、追認するだけ。メディアは報道さえしない。 最近の反原発のデモを見たフランス人留学生は、警察の規制の厳しさに驚き、日本が 民主主義社会だというのは大ウソだと断言している。

追記(2011/6/27):東京新聞(2011/6/18)の読者投書(無職・江森忠・65)より抜粋。

日本のデモといえば反原発に限らず、必ず多くの警官、 特にデモ参加者の写真をとりまくる公安職員がゴキブリのように出てきてデモの邪魔 をし、リーダーを逮捕し、二度とデモをさせまいと躍起になっているように見えます。 デモ一つできない国、反対はつぶす、となると戦前の特高が形 を変えいまだ存在し、市民の行動を監視していると言えるのではないでしょうか。

■補足F(2011/2/28):体制追従の人々が多いのはなぜか。異論を唱える人間が 理不尽な目に合わされるのをよく見るからである。裁判などで闘っても被害を回復 するのは困難であり、勝ったとしても権力側の理不尽なイジメ行為へのペナルティ は、ほとんどないようなものだから彼らは反省もしないのだ。

東京新聞(2011/2/19)の『こちら特報部』によれば:

三鷹高校元校長・土肥信雄が表だって都教委と対立したのは2008年の 「職員会議での挙手・採決禁止の通知」に異を唱えた ところからだ。しかし、土肥さんは「06年に教職員との会話で、当時の教育委員 米長邦雄氏を批判し、これを都教委に密告された」ことが発端だと明かしている。 この件で1回目の呼び出しと指導が行われた後、定時制卒業式では「教師1人ひとりに (日の丸掲揚、君が代斉唱に従うよう)職務命令を出せ」と7回も大人数の都教委職員 に取り囲まれた。「もう脅迫です」と土肥さん。 09年、定年を迎えた土肥さんは、通常校長経験者は全員採用される非常勤教員採用試験 で、全ての項目で最低のC評価を受け、不合格とされた。
異論を聞く耳を持たない社会は、いつまでも合理的な判断をできないのである。

■補足G(2011/4/11):官僚的組織のセクション内部では下からの異論が許されない 傾向があると書いた。そして官僚的組織では文科系が主流だと書いたが、理科系の 官僚的組織でも同じ傾向を持つ場合がある。大きな資金が必要な分野で、 金やポストの配分を握るボスがいる場合である。

東京新聞(2011/4/9)『こちら特報部』の福島原発事故に関する記事によれば:

なぜ原発が推進されたのか。小出裕章(京大・助教)は原子力利権に群がる産官学の "原子力村"の存在を指摘する。「原発は造れば造るほどもうかる。経費を電気料金に 上乗せでき、独占だったからだ。大手電機メーカー、土建業者も原発建設に群がった」 大学の研究者らがこれにお墨付を与えた。「研究ポストと研究資金ほしさからだ」 「私(小出裕章)と今中さんがいなくなったら、 原子力に異を唱える研究者はもう出てこないのでは」
毎日新聞(2011/4/7)『特集ワイド』によれば:
「原子力の専門家を育てる大学は、東大を頂点に旧帝国大学や一部の私立大学 に限られている。原子力村の学者集落は200〜300人。みんな顔見知りですよ。 民間企業も含め原子力産業の中核に携わる人は、数千人くらい」(武田邦彦)
地震で福島原発の事故が生じて、東電の記者会見が行なわれた時、 この会社の社員の有様はまさに官僚的であることが分かった。 彼らが最初に説明したのは事故の現状ではなく、法令の条文だった。

追記(2011/6/2、2011/6/27): 電力会社には官僚が天下りしているという(週刊現代2011/5/21)。

逆に、原子力関連企業の社員が霞ヶ関の内閣官房、原子力安全委員会や文部科学省の 原発関連部署などへ出向している。規制する側とされる側が机を並べている異常な姿 があるという(週刊現代2011/7/2)。

異常な姿は、異常な行為として現われる。 1977年から約20年間、福島第一原発の保守・点検を担当したGEの技術者が、 東京電力のトラブル隠蔽に気付き、旧通産省に内部告発した。ところが東電を 監督するべき旧通産省は逆に告発者の名前を東電に明かしたのである (TBSテレビ『NEWS23クロス』2011/5/23)。

■補足H(2011/5/23):毎日新聞(2011/5/16)『社説』によれば:

日本では、政府と電力会社、メーカー、大学などが原発推進の一大グループを形成して いる。「原発に大事故は起きない」という建前に支えられてきた共同体だ。危険を 訴える少数派には「反原発」のレッテルを貼り、 「極論」と退けてきた。米国では、審議会方式をとる場合も、 メンバーの選び方や運営方法などを厳しく規制しているという。報告書に少数意見が 添付される習慣もあるようだ。英国には、政府が作成した政策案に対し、あらゆる 関係者から意見を募って公開し、それを吟味して決定する制度がある。
『原発はなぜ危険か』田中三彦/1990年(岩波新書)によれば:
科学的あるいは技術的な理論やデータを前にして、専門家全員の見解が一致する ことはありえないことである。しかし日本の原子力発電は、意見の対立や批判精神が 存在しない集団によって推進されてきた。唯一彼らが批判精神をむき出しにするのは、 反原発に対してである。

この機械的な反応、無人格性、無批判性こそ、わが国で原子力発電が継続されて いく際の最大の危険要素かもしれない。

■補足I(2011/6/2):東京新聞(2011/5/30)『こちら特報部』にも 異論を表明した原子力の専門家へのイジメ行為の例があった。
1972年の日本学術会議第1回原発シンポジウムで、安斎育郎氏は原発の問題点を指摘。 以来「国策に反対するのは許せないと、徹底的にマークされた」という。 「主任教授は『安斎は干すことになった』といい、研究室メンバーは誰も私と口を きかない。教育業務からも外された」研究発表も教授の許可制だといわれた。 「無視して発表したが、金のかかる研究はできなかった」
科学者の世界では、異なる主張はデータと論理の質によって争われるのが正常な 姿である。それをしないで、権力で抑圧するというのはマトモにやれば負けるのを 自覚しているからではないのか。こういう組織運営をしているから、この国は合理的 な判断ができないのである。

追記(2011/8/8): テレビ朝日(2011/8/2)『報道ステーション』の取材に安斎育郎が証言した。 「私の隣席に電力会社から派遣されていた人が辞める時に言っていたことですけど、 安斎が原発問題について何をやろうとしているかを偵察するのが役割だった、と」 「原子力村という言い方がされますけど。今度のような事件がおきた社会的背景には 批判者を抑圧し排除して、その言い分を無視していく、そういう体制的な欠陥があった んじゃないかと思いますね」

■補足J(2011/6/6):政権が自民党から民主党に代わって、期待されたことの一つは 情報の開示であった。しかし一部を除いては実現されなかった。

特に、菅直人以後の内閣になってひどくなった。政治主導を実現する能力がないと 自覚するや否や、官僚に完全に依存するようになったのである(TPP、普天間基地、 原子力…)。しかし、この国の官僚は様々な悪弊を持っている。

その一つは情報の隠蔽である。しかも、自分たちがやっている ことが隠蔽だという自覚がない場合もある。

デパートが火事になった時に、客がパニックになると困ると言って警報を止める 従業員がいたら犯罪者として断罪される。日本の官僚または政府機関に関与 する学者集団は火災警報を止めるのと同じようなことをやったのである。

福島第一原発事故の際に、 放射性物質の拡散予測のシステム(SPEEDI)がありながら、嘘をついて情報を 出さなかった。そのために多くの人々が被ばくした。

避難指示や食品の放射能汚染の情報発信に関する問題を取り上げたNHK総合テレビ (2011/4/12)『ニュースウォッチ9』で元・官僚の石原信雄(阪神・淡路大震災時の 内閣官房副長官)は政府の情報発信における安全性の強調を肯定した。

住民に不安を持たせることは政府は避けないと。パニック(※1)を起こすようなこと を政府は言ったらいけない。
本末転倒である。日本の官僚は事柄の軽重が正常に判断できない。 国民に危険性を知らせることより、パニックを避けるために安心を強調するのが 重要だと言うのである。

NHK教育TV(2011/5/15)『ETV特集』はボランティアで放射能汚染地図をつくって いる科学者を取り上げていた。チェルノブイリまで自主的に測定にいったことがある 厚労省の研究所の専門家だ。福島第一原発事故では職場の幹部が自発的な調査をしない ように指示したという。彼は辞表を出して調査している。その取材の過程で、 文科省が避難区域外の高汚染地域をピンポイントで選んで測定したことが分かった (※2)。しかも人がいるのに危険を知らせず、 その地名を隠していたのである。風評被害が起こらないためだという。風評被害とは 正確な情報がない場合に起きるのが理解できないのだろうか。ここでも官僚の価値観は 本末転倒である。

※1 毎日新聞(2011/5/31)のコラム『余録』によれば:
地震や火事が起きた時、大勢の人が先を争って逃げようとお互いを踏みつけたり押し つぶしたりするのがパニックのイメージだ。だが、災害心理の専門家はそんな想定を 「パニック神話」と呼んでいる。現実の災害では、その手の集団的な異常行動が起こ るのはまれだという。むしろパニック神話にとらわれた責任者が混乱を避けようと 危険を軽視し、避難誘導が遅れて大災害をもたらすケースが目立つそうだ (広瀬弘忠著『人はなぜ逃げおくれるのか』集英社新書)。

※2 文科省は測定ポイントの選定にSPEEDIを使ったと私は想像していた。 東京新聞(2011/7/6)『こちら特報部』によれば、やはり文科省による測定場所の 選択はSPEEDIのデータを参考にして決めたという。東京新聞の取材に対して、 地名を出さなかった理由は「住所表示が粗いので、地図で表した方が正確だと 判断した」と答えた。NHKの取材に対する答えと違う。所詮ウソだから、その場、 その場で違ってしまったのだろう。

■補足K(2011/6/6):日本テレビ(2006/11/19)のNNNドキュメント'06『敗北外交』 によれば、日本の経済外交は負け続けている。OECDでは日本に不利なルール変更 で、ODA関連事業の日本企業の落札率は下がり続けている。

経済産業省の前田充浩が過去の日本の経済外交をヨーロッパで調べて次のように 話した。

(日本国内には)過去、自分たちがやった政策の記録が残されていない。 外部の研究者に公開されない。1回負けたら同じ失敗を繰りかえす。 残すと恥かくからね。特に負けたときの資料が潰滅的、すぐ捨てるのでしょうね。 組織として昨日より今日のほうが賢くなるという仕組ができていない。 失敗したらどこが悪かったか国民皆でチェックしていくようにしなければ無理です。
官僚の隠蔽体質は国民のパニックを避けるためではない。 彼らのメンツと保身のためである。メンツを保つための隠蔽は、 ちゃんと仕事をやったフリをするのと同じことだ。

敗戦時に書類を大量に焼却したという元・特高警察官の体験談を新聞で読んだこと がある。情報公開法が施行される前には、外務省なども書類を焼却したという。

■補足K2(2011/6/6):官僚はメンツのためなら不合理な 判断を平気でする。東京新聞(2011/5/22)の特集『レベル7 第一部福島原発の一週間』 によれば:

「地上からの放水はまず警察がやる」内閣危機管理監の伊藤哲朗は、 そう主張した。空からは自衛隊が先陣を切った。伊藤は警察庁出身。組織の面子が かかる。3月17日午後7時すぎ、警視庁第一機動隊が高圧放水車で44トンを放水する。 放水できたのはわずか10分。線量計の警報が鳴り、撤収を余儀なくされる。その後に 自衛隊が入り、18日昼すぎまでに70トンを放水する。プールの容量は1440トン。 まったく足りない。連続放水するには、東京消防庁の力が欠かせなかった。 経済産業相の海江田万里と総務相の片山善博は、東京都知事の石原慎太郎に協力を 打診する。石原慎太郎は「車は出せるが人は出せない」と断わる。安倍信三が間に 立った。石原は受け入れ、17日に出動を命じる。第一陣は19日、3号機に向かった。

※ 役に立たないパフォーマンスで時間を浪費しても平気なのが日本の官僚である。 自衛隊ヘリによる放水は、いらだつアメリカに対して、ちゃんと仕事している フリをするために行われたという(TBSテレビ『Nスタ』 2011/5/11)。

※ 東京新聞(2011/6/25)によれば:3月17日朝、政府が大臣通達を出し、既に準備が 進んでいた警視庁の放水車より、自衛隊による水の投下を優先させたことが24日、 保安院が公開した文書で判明した。テレビ中継を通し「米側に事故収束に取り組む姿を アピールする狙いがあった」(政府関係者)

■補足L(2011/6/8): TBSラジオ(2011/3/15)『小島慶子のキラ☆キラ』に出演 したジャーナリストの上杉隆の地震・原発事故に関する話:

確定した情報はすぐ出すべきなんです、政府は。国民のものですから。 人命がかかわるから隠してはいけないんです。メンツとかなく知らせる。

三陸沖で津波にさらわれたという情報が入ったんです。政府の発表は 「十数人行方不明者」と言ったんですよ。その時、すでにツイッターとか、 ラジオとかフリーのジャーナリストは現地に飛んでいたんですね。 「そんな数じゃないぞ」と。すごい数になっていると。すぐ災害援助隊、救援隊、 各国へ要請を含めてやるべきだというのがフリージャーナリスト…。 それを訴えに行こうと思ったんですが。政府の会見(は)フリーランス、 海外メディア(を)拒絶です。

ニコニコ動画とか海外メディアとか1社ずつでも入れてくれと…。 政府が発表しないものだから、誤情報とかデマが流れたわけですよ。

(小島慶子:そうすると海外の記者の方は政府の記者会見を取材しないで記事を書く ことになるわけですか?)

そうです、今も。

怒鳴りつけたんですよ。誰でもいいから一人いれろと。 入れたくないならツイッターでも作って発信してくれと。 枝野・官房長官の携帯電話に十何回いれてんですよ…。

(小島慶子:政府が発表する重大な情報っていうのが、なるべく色んな道を通って 隅々にまで行き渡ったほうがデマが発生しにくくなるってことなんですね)

初日にアメリカ軍が救援もふくめて「助けるぞ」と言ったわけですよ。 官邸は断わったんですよ。メンツと官僚と、 それから海外メディアを排除しているから情報が入らないんです。

きのうから原発の問題に関しては世界中「大変な問題だ」と、 「メルトダウンするぞ」と言ったんです。その情報、海外のメディアは全部 そうですから、専門家も…。メルトダウンという言葉を使ったらバッシング受けた んですよ。メルトダウンという言葉を使うなと。

可能性を言ってるんだと、最悪の事態にそなえるのが一番だと。 枝野さんに電話したのも「3キロじゃないでしょう」って。最初言うのは30キロ! 世界中…。原発のときは大げさでいいんですから。大丈夫だったら、減らしていく のが普通のやりかたなんですよ。

ところが、官邸、官僚、東京電力、電事連、記者クラブ、放送局、新聞…。 やらなかった。「3キロ」、「5キロ(※)」…。それに対して突っ込めって、 誰かひとり。誰ひとり聞かなかったんですよ。人災だ完全に。

「確認します、確認します」と枝野さんは言ったんです。「被害ありません」と…。 「確認した情報から序々に出していきます」と言ったんです。 携帯に電話して「確認した瞬間に原子力の場合、終っているんだ」と…。

事実を知らないと対応できないじゃないですか。海外メディアもフリーも情報を 持っているんです。現地行っているから。ガイガーカウンターで広河隆一さんとか 測ったら振り切れているわけですよ。

NHK以外伝えない。全部、東電の、TEPCOのコマーシャル入ってるか知らないけど。 誰ひとり質問しない。批判しない。

結果として被害者が出てる。国際的信頼を失って、株価が下がり…。 情報が多様化していれば、こういうことならなかったんですよ。 記者クラブってしつこく言っていたのは…。残念ながら遅かったんですけど。

枝野・官房長官が1号機爆発したときに「水素爆発です。健康には問題ありません」と…。 3号機爆発しますというとき「爆発しても人体に被害が及ぶものではありません」と 言ったんですよ。その間の官房長官会見、誰一人、そのことについて質問しなかった んです。フリーランスや海外メディア、ネットメディア排除しているから、 原子力政策に誰一人、文句言えない。

※ 政府による避難指示の経過(毎日新聞2011/6/10):
3/11(21:23) 半径3キロに避難指示。
3/12(5:44) 半径10キロに避難指示。
3/12(18:25) 半径20キロに避難指示。
3/15(11:00) 半径20〜30キロに屋内退避指示。
4/11(16:09) 計画的避難区域、緊急時避難準備区域の設定発表。

※ 避難区域3キロから始めて序々に拡大したことや、枝野・官房長官が 「ただちに健康に影響がない」と言ったことについてよく批判されている。 多分、こうしたことは官僚が実質的に決めたり、表現を考えたりしたのだろう。 政治家が主体的に判断したとは思えない。政治家が官僚を匿名化する機能しか 果たさないならば、無用である。

■補足M(2011/6/27): 日本テレビ(2011/6/19)『NNNドキュメント'11』によれば:

アメリカで福島第一原発と同じ型の原発を取材すると、 30年前から全電源喪失を想定した研究がされていた。それによると、2〜3時間で 燃料が溶け始めるという。その40分後、圧力容器の底に落下(※)、さらに突き抜ける メルトスルーへ一気に進むという。アメリカはそれに対して対策をたてている。 アメリカの原発では安全性に穴が見つかると直ちにそれをふさぐ、という。

日本の原子力の安全設計審査指針では長時間の電源喪失は考えなくてもよい と書かれていた。

日本は(優秀だから)「過酷事故(シビアアクシデント)は存在しない」とされた。 だから「研究やるときも過酷事故と言えないんですよ」(元原子炉設計者・後藤政志)

戦争中も、日本では「負ける」という言葉を禁句にして、軍部は日本を泥沼に引きずり 込んだ。都合の悪い言葉を禁句にすれば、都合の悪い事態が起こらないと思っている のが日本の官僚的組織の性格らしい。日本の行政組織は底なしの●●である。

※ 福島第一原発では、全電源喪失が起きて長時間放置したにもかかわらず、 日本の原子力関係者は、IAEAが調査にくる直前まで「メルトダウン」を認めず、 それを禁句にしていた!

※ これから安全設計審査指針などを改めるだろうが、失敗を繰り返すことは確実だ。 表面上は現代化しているが、内面は江戸時代的な組織の在り方が変化するようには 見えないからだ。このような組織原理を変化させる可能性がある改革は官僚や政治家 の半分を女性にすることかもしれない。自民党などの女性議員をみれば、女だから 男より良いとは思わないが、男社会に特有な上下関係やメンツへの過敏さを緩和させる 可能性がある。

■補足N(2011/6/27):日本国憲法の第1条は、主権が国民にある、としている。 第19条には、思想・良心の自由を侵害してはいけない、とある。 第99条は、天皇、大臣、国会議員、 裁判官、公務員などは、憲法を尊重し擁護する 義務がある、としている。これらは立派な条文ではあるが、現代日本では、 絵に書いたモチとなってしまった。

1999年に十分な審議なしに自民党・自由党・公明党により「日の丸」・「君が代」が 国旗・国歌と法制化された。法制化されるときに強制はしないと言っていたのに、 石原慎太郎知事のもとで都教育委員会は、入学や卒業の式で国歌を起立斉唱させる べきだと通達を出した。それに従わない教員達は処分されたり、不利益を受けた。 他の地域でも同様の動きがあった。処分された教員達はいくつかの裁判に訴えた。 しかし2011年、最高裁はこれら教員達の主張を否定した。

国民主権でなかった明治時代から「君が代」の歌詞の『君』は天皇を意味してきた。 「君が代」は国民主権に反する天皇讃歌である。国民主権か、そうでないかは社会に おいて思想の重要な問題である。

新聞の投書に、起立しない教師を批判している20代の人がいた。 「『君が代』は天皇を直接詠んだものではないし、今も大日本帝国時代の意味で 歌われているわけではないだろう」と書いていた。これは間違いである。

読売新聞(2006/3/24)の植田滋による連載コラム『宗教と国家(3)』に、 西尾幹二の主張が紹介されている(諸君!2006/4)。

「天皇の制度にとって大切なのは歴史ではなく信仰である」。
現代においても合理主義を否定して国民に信仰を押し付け、日本を宗教国家にしようと いう天皇制原理主義者がいるのである。

産経新聞(2006/5/29)はネット上で「君が代」の替え歌が流布していることを 取り上げ「皇室に対する敬慕とはかけ離れた内容」と批判している。 「君が代」の替え歌を面従腹背と批判したコメント(高橋史朗)もある。私は産経新聞 が取り上げた替え歌よりも、「君」を「民」にした替え歌のほうが「君が代」に反対する 意味が民主主義を守るためであると明示するので良いと思っている。

私がギリギリ耐えられる限界は、「君が代」はメロディーだけで歌詞は歌わず全員着席 のまま行われる式典である。「君が代」を歌えば愛国者というなら、それはロボットの 愛国心である。

※ 日本と同じで官僚国家の旧ソ連はチェルノブイリ原発事故の際に、日本と同様に 情報隠蔽したり、住民避難をおくれさせたりした。事故の本当の責任者が責任を 問われなかったことについて、ルキヤノフ(当時の共産党中央委員会総務部長)は、 こう説明したという。「神様ですよ。アマテラスです。日本人にはわかるでしょ、 目上の人に対する尊敬の心が。体制を支えてきた神様が相手だったのですよ。 責任があることはわかっていても罰することはできなかったのです」 (『原発事故を問う』七沢潔/岩波新書)。

■補足O(2011/8/15):2006年の郵政選挙で水膨れした自民党が教育基本法を改変し、 これにそった学習指導要領の改訂が2008年に行われた。この新学習指導要領の柱は 愛国心を核にした道徳教育だという。埼玉県が発行した道徳教材(中学校版)には 旧会津藩の「什の掟」が掲載されている。週刊金曜日(2011/7/15)にある教材の 写真には「年長者の言うことに背いてはなりませぬ」とある。教員用の 指導資料には『ダメなものはダメ』といった毅然とした指導が大切だとして、 いけないことに理由はいらないと解説しているようだ。封建時代の道徳をそのまま 現代に持ち込むことの異常さに思い至らない人々が教育を支配しているのだから、 この国が良くなる気配は少しも感じられない。

■補足P(2011/8/29):この国の欠陥について、 私が認識したものと同じような認識が、月刊誌『世界』(2011/7)の 編集後記(岡本厚)にあったので抜粋:

5月4日付朝日新聞が報じた「ウィキリークス」公開の米外交公電によると、 普天間基地の移転問題について、09年の民主政権発足後、米政府高官に対して、 外務・防衛官僚らが「あまり早期に柔軟さを見せるべきではない」 「民主党政権に対し過度に妥協的であるべきでない」などと数回にわたって 助言していたことが分かった(※)。

ここに、日本の政治の仕組みが垣間見えた。主権者である国民の意思によって 政権交代がなされ、政策転換がなされようとした時、実務を担うべき官僚が、 これに従わない姿勢を示したのである。

ここで私たちは、この国の主権者は誰であり、誰が政策を決定するのか、 という深刻な問いにぶつかる。何のために選挙があるのか。

政治主導を掲げた民主党は、こうした問いに答えを出す責務があるはずだ。 ところが、この党は、対米追従と官僚主導に戻ってしまった。菅政権に対する 不信は、政権の不可解な転換と逆行にある。鳩山・小沢政権に対する官僚の 総攻撃が、特捜検察による異例の小沢捜査ではなかったか(※)。

福島原発事故を起こした原子力政策についても、外交と同様、日本の統治の仕組み が深くかかわっている。いったん国策として回転し始めると、行政優位の利益共同体 が生まれ、異端は排除され、チェック体制は骨抜きとなる。 司法も役に立たない。国策に逆らおうとすれば、検察が牙をむく。

つまり、日本は民主主義ではないということである。

※ 自国の政権に反して外国に媚びへつらう官僚は、相手から便利だと思われる一方で、 侮蔑されているだろうことに気付かないのは愚かである。

※ 自民党と特捜検察の、民主党攻撃に同調して、党内抗争を繰り広げた菅政権は バカであった。

※ 追記:TBSラジオ(2011/9/19)で放送された岸本正人(毎日新聞論説委員)の話。

私はですね、1990年代の後半にある外務省のトップの外交官からこういう風に 言われたことがあります。『アメリカと共に歩むことが日本の国益なんだ』。 つまり価値観なしで何をやってもアメリカと共に歩む。アメリカのやることには 異を唱えない。賛成する。

これが日本の国益なんだという考え方ですね。これが日本の官僚、それから 日本の政治の中にも深く染みついている。イラク戦争について日本の態度を検証する ことは、そこの所をあぶり出す一つの方法なんですね。だから政権交代を生かして 民主党には検証して欲しかったんですけど、動きが鈍くなっている。

※ 追記:国民には隠していた放射性物質の拡散シミュレーション(SPEEDI)を、 文科省は原発事故直後に米軍に提供していたという[35]。 どこの国に仕えているつもりなんだろう。

※ 追記:同じようなことが繰り返されている。米国が水爆実験を繰り返し、 第五福竜丸が被曝した頃、他の漁船も被曝した。国は漁民の被曝線量を測定したが 本人や国民にはデータを開示せず、米国には報告していた[74]。

■補足Q(2011/9/19):刑事裁判や行政訴訟では裁判所は裁判をやっているフリを しているだけである。同様なのが原子力を規制するはずの保安院である。 規制するフリだけで、実際には原子力を推進した。 毎日新聞(2011/8/4)の「記者の目」(足立旬子)より抜粋:

保安院の「やらせ」問題は皮肉にも、九州電力による玄海原発 再稼働を巡る「やらせメール事件」を機に、保安院が調査を指示した結果、7月29日、 電力会社が暴露する形で判明した。

保安院は、核燃料加工会社JCOの臨界事故(99年)を教訓に、原子力規制を強化する 目的で、01年の省庁再編に合わせて発足した。 原発推進側からの独立が焦点だったが、経産省資源エネルギー庁の「特別機関」と 位置づけることで独立性を確保できるとして、推進官庁内にとどまった。

発足直後から電力会社に甘い姿勢が批判されてきた。02年に発覚した東電のトラブル 隠しでは、内部告発を1年半公表しなかった。07年に全国の原発で発覚した臨界事故 隠しなどでも、運転停止処分を見送った。同年、IAEAは、総務省から保安院を独立 させる措置を助言したが、独立を明記した報告書をIAEAに提出したのは福島第一原発 事故後だった。

※ 保安院は2012年4月、経済産業省から切り離され、環境省外局の原子力安全庁に 統合されるらしい。だが、小出裕章氏(京大)は「いくら組織をいじっても同じ問題 が起こる。寄らば大樹の日本では難しい」と言っている(東京新聞2011/3/18)。

■補足R(2011/10/10):同一セクション内の上位者への異論を禁止する 日本的組織では、明確な命令ではないのに、命令になってしまうことがある。 TBSラジオ(2011/10/4)『Dig』で経済ジャーナリストの町田徹が話したこと:

(町田)新聞は期待できないから。

(神保)広告ですか?

(町田)広告だけじゃないですけど。大新聞の経営者って東京電力の経営者と親しい ですよね。「きょう東京電力の呆幹部とお酒を飲んで来てな、うちの論調は東京電力に 厳しいって、さんざん文句言われて参っちゃたよ」みたいな事を会社に帰って、 平気で言っているんですよ。

人脈が広いだろっていう自慢話のつもりかもしれないけど、聞かされた部下から するとね…。「社長が怒っている。東京電力の批判をしてはいかんぞ」っていうのが、 部長デスク級に、わっと来て…。 現場の記者クラブのキャップ達は、「東京電力の批判を書くな」と言われて…。

※ 原発事故に際して、海水注入を中止させる命令を東京電力中枢が福島第一原発に 出したのは、官邸の意志の推量によるものであった[21]。現場の所長はその愚かな 命令に正面から反論するのではなく、海水注入を中止したフリをしたのであった。

■補足S(2011/12/26):政府が作る審議会とか委員会の類も、 ちゃんとやっているフリの例である。放射線測定の専門家(岡野真治)への インタビュー記事[22]から:

日本の委員会は、はんこを押すだけ。ワーキンググループで事前に検討した ことに対し、これでいいですよ、とお墨付きを与えるのが役目で、ディスカッション をする場になっていない。ある委員会に顏を出した時、もっと検討してから決める べきだ、と文句をつけたら、すごく嫌がられたことがある。
現在、神奈川県知事をしている黒岩祐治が、ポリオ・不活化ワクチン導入について ラジオで話した[23]。その中から抜粋:
フジTVやめたのは2年前。そこから厚生労働省の予防接種部会のメンバー だったんです。ワクチン後進国を脱していこう。予防接種法を大改正しよう という会だったんです。その中にポリオの話があったんです。

「ワクチン後進国になった責任は誰にあるんだ」って聞いたらば、 誰も答えないんですよ。ずっとやってきた官僚機構の中で誰に責任があるのか 聞くと、「シーン」と黙るんですよ。

2年前から始まっているけど、この検討会。中身はね、これが官僚主導というものか と痛切に感じましたよ。専門家が集まって来て、この人達はずっとお馴染のメンバー なんですよ。私はね、たまたまポコッと入ったんですよ。

官僚が書いたシナリオがあるんですね。座長さんはね、シナリオの通り読んで いくんですよ。それに対して私が「オカシイ!」って言うでしょ。さんざん言わして おいてね、「これで議論も尽きましたから、こういうことでまとめたいと思います」 って言って、ボクが発言したこと完全に無視して官僚のシナリオの通り読んで いくんですよ。

福島第一原発事故以後、さすがにエネルギー関係の委員会に脱原発の専門家が 入るようになったが、それは形の上だけである[24]:
官主導の脱「脱原発」の動きが加速。1例は再生可能エネルギーの買い取り価格 を検討する有識者委員会(調達価格等算定委員会)。価格は普及を左右するが、 委員会の人事案をみると、買い取りに否定的な人物が過半だという。

審議会や委員会の人選は官僚の領域だ。福島原発事故後、原子力委員会など にも脱原発の論客が加わったが、数のうえでは少数派だ。このため「ガス抜き」 という見方もある。

※ 原発や放射線のように多くの専門家は利害関係者である上に 専門家の見解に対立が見られる場合、それらに関する選択を決定する 委員会や審議会をどう設計したら妥当だろうか。

専門家の多数決で決まるなら、最初の人選で多数派になったほうの見解になる。 それは、最初の人選をした者の意志が通るというだけの話だ。討議したフリである。

対立する両陣営の専門家を集めて、同じ時間、意見を述べさせるべきである。 その上で、決定に責任を負う人間が判定して、その判定の理由を国民に明示すべき である。

誰を判定者にするべきか。本来なら政治家なのだが、現状は、とても国民を代表 しているようには思えない。

裁判のような判定制度をつくることも考えられるが、 原発の危険性を争った裁判15例で、危険性を認めない判決が確定してきた 現状を見れば、裁判所と行政機関は一体であり、駄目である。

検察審査会のようにクジ引きで、判定者を選ぶのも考えられる。だが、一般人から 選ぶとなると大変かもしれない。候補者の範囲を限定してもいいかもしれない。 利害関係のない分野の専門家のリストを大学や学会から判定者の候補として 出させるのはどうだろうか。

※ 裁判やテクノロジー・アセスメントで専門家の異なる見解を判断する手法として 「コンカレント・エヴィデンス」や「コンセンサス会議」というものが行われている 国もある[76]。

■補足T(2011/12/26):日本の官僚や政治家は、将来に予測される国家の危機 よりは、自分達が属するセクションの従来の活動や権益を継続することに腐心する。 沈みつつある船の上で自分の座席を確保することに熱中するのだ。

危険を予測して行動を選択するのではなく、行動を決めてから専門家の予測を見る。 既に決めたので都合の悪い予測は見ても無視する。危険を考慮したフリである。

阪神・淡路大震災の後、文科省に地震本部(地震調査研究推進本部)が作られた。 その長期評価部会の部会長・島崎邦彦(元地震研教授)は2002年に 三陸沖から房総沖にかけての大地震と大津波の発生(30年以内に20%)を予測して、 防災に活かすべきだと主張した。しかし報告書には官僚により次の一文が 挿入された[25]:

今回の評価は、資料が十分にないこと等による限界があることから、 防災対策の検討など評価結果の利用にあたっては、この点に十分留意する 必要がある。
この官僚による作文は、大がかりな防災対策をしたくない内閣府の中央防災会議との 摩擦を避けるためになされたらしいという。 この結果、地震の長期予測の専門家の見解は無視された。

猪瀬直樹[26]は、1941年の開戦直前に政府が立ち上げた「総力戦研究所」について 書いている:

これは各省庁のエリート官僚のほか民間も含め、総勢30名の精鋭を集めて 組織された模擬内閣だった。

彼らが取り組んだのが、日米開戦のシミュレーションであった。 結論は、「緒戦は優勢ながら、徐々に国力の差が顕在化、やがてソ連が参戦し、 開戦3〜4年で日本は敗れる」というものだった。

データの裏づけをもって予測された。にもかかわらず本物の内閣がこれを無視し、 シミュレーション通りの敗北をした。

別宮暖朗[26]は、日本的な組織の錯誤が真珠湾攻撃に突き進んだ原因だと言う:
御前会議における結論は大本営政府連絡会議の決定をそのまま踏襲せねばならず、 その決定も陸海軍統帥部(軍令参謀本部)の「課長の打ち合せ」に従う決まり であった。

陸海軍統帥部とは別に東條首相直属に総力戦研究所があり、「日米戦は日本の必敗」 と答申した。東條は「口外するな」と言っただけであった。

東條からみれば、統帥部作戦課長に抗うことは組織統制上できなかったのである。 日本的決定システムは常識で不可能なことも、無能なスタッフが認めれば可能に なってしまう。

別宮暖朗は現代日本の無能な参謀スタッフの例として、地震と津波について危険性を 提言をしなかったと、地震研究者を批判している。これは先に紹介したETV特集[25] によれば間違いである。地震研究者は警告したのに、官僚や政策を決定する立場の 者が、戦前の東條英機と同様に無視したのである。

■補足U(2011/12/26):小町谷育子(弁護士)が新聞コラム[27]に書いたことから:

芸能活動をしながら政治的意見を発信している人はほとんど見かけない。 日本全体が政治的な意見の表明を歓迎していないようだ。 外国と比べて、日本では人権が保障されているといわれるのは誤りではないが、 大多数と同じ行動を取っている限りにおいて保障されているにすぎない。 だから私たちは権利が侵害されていると感じないのだ。 異なる意見を尊重しない社会、自主的に規制する社会 ほど怖いものはない。
落合恵子が脱原発の発言に関連して雑誌[28]に書いた話から:
「殺すぞ」という電話が頻繁に入っていると連絡が。権力に類するものに反対の 立場から活動を始めると、必ず脅迫めいた反応はある。慣れてはいるはずだが気持ち 悪い。いやな気分になる自分が悔しくもある。
沖縄の八重山地区での「つくる会」系教科書の採択をめぐる野中大樹の記事[29]から:
教科用図書・八重山採択地区協議会(会長・玉津博克石垣市教育長)は、教員の調査 結果を反故にし、「つくる会」系の「育鵬社」公民教科書を選定した。

高校生が新聞に寄稿した:

<とことん話し合い、情報公開、説明責任を果たす民主主義の姿を見せてほしい>

自民党系の石垣亨市議は、高校生の寄稿を「恩師批判」だと主張。 高校生が留学した時の高校校長が玉津教育長だったことを指してのことだ。 悪質だったのが明星大学の高橋史朗教授だ。玉津教育長が「この生徒の渡米費用など を苦心惨憺して留学させた」「高校生が偏向報道をうのみにした」と言い放っている。 しかし、高校生の渡米費用は「全額自己負担」で親が出している。

石垣とか高橋というのは、言論の内容への反論ではなく、社会関係の中で、 立場の上下から言論を封殺しようという人間の例である。

■補足V(2011/12/26):会社について、佐高信のコラム[30]から:

日本の社長は自分で自分を選ぶ。実質的なトップが取締役を選び、その取締役たち によってトップが選ばれるのである。だから、自分で自分を選ぶことになる。

それをチェックする株主総会をはじめ、監査役、労働組合、消費者運動等がこの 国では機能していない。メディアも批判精神を失って いるから、日本の社長は何も恐くないのである。

私は、日本の会社は江戸時代の藩であると言ってきた。社長に世襲が多いことも その理由の一つである。だから、大王製紙のように信じられないバカ殿が現われる ことにもなる。

高田昌幸(ジャーナリスト)が雑誌[31]に書いた話から:
日本で一番言論が不自由なのは会社組織の内部において、 である。そして、一番モノを云うのが難しい場所は、会社組織の内部である。 例えば、新聞労連は、何度も何度も、記者クラブ問題を取り上げてきた。 しかし、組織に戻り、職場の中において、記者クラブの開放をどう主張、 実践してきたのだろうか。
2011年に発覚した企業の不祥事を報じるテレビの中で、こうした企業の 体質について表現された言葉は:
オリンパス[32]損失隠し事件:
「社長の方針に異論を挟めない社内の雰囲気」

大王製紙[33]の前会長が子会社などから106億円を引出してカジノに使い59億円が 未返済:
「グループの中では井川前会長親子に 異を唱えることはできない体質」(調査委員会の会見)

■補足X(2012/1/2):日本的組織では、同一セクション内では上位者への異論は 許されない。そのような組織では合理的な判断はなされない。人事も歪む。 日本の官僚組織ではエリートが、切れ者、カミソリ、エース、天才、三羽烏などと 呼ばれて、もてはやされることがある。

しかし、このようなエリートが本当に優秀であることは少ない。多くは、 危機において愚かな判断により国民に大きな損害を与えてきたのである[26][34]。

※ 大阪高検検事部長だった三井環の本[55]によれば:関西地検のエースで、 検事長に昇進するとの呼び声が高かった検事正の強引な捜査のやり方を三井が咎めた。 その後、その人物から三井に対して、人事や給与での意趣返しが繰り返された。 「人事権の濫用としか思えない冷遇ぶりだった」という。三井は、この人物を 裏ガネ問題で告発したが、検察は逆に元・警察官僚の政治家(カミソリ後藤田) に泣きを入れて裏ガネ問題を封じた。 三井は逮捕され、三井が告発した人物は検事長に昇進した。

■補足Y(2012/4/23):弁護士タレントとしてTVで有名になり、大阪府知事、大阪市長 になった橋下徹は、公立学校の教員に「君が代」を起立斉唱させるための条例を 作ったりしている[36][37]。本当に歌っているかどうか口元のチェックをさせた 校長もいたという[38]。

一方では、大阪市の発令式で新入職員に「皆さんは国民に命令する立場に立つ」と 訓示した[39]。

大阪市特別顧問になった山田宏が杉並区長だった時に教師養成塾・師範館という ものを作った。その塾生の話(伝聞)によれば、 「グランドピアノを動かそうとしている人に『手伝って』と言われたら あなたはどうするか、との問いに『手伝いましょうか』は誤答。『上司(校長)の 指示を仰ぐ』が正解」と指導され、教師になるのをやめたという[37]。

※ 役人は国民に命令する立場に立つ、と考えているなら、ドイツの絶対王政期の 警察国家や江戸時代の精神構造である。だから今どき「維新の会」などと時代錯誤 の名を付けても恥しくないのだろう。命じられるまで動かないロボットが理想の 教師なら、津波が来たら大川小学校のように児童・生徒は悲惨なことになるだろう。

■補足Z(2012/5/7):日本の公的組織が標榜している機能はタテマエでしかない ことがある。

2006年、原発の防災重点区域の拡大を検討していた原子力安全委員会に、 保安院が「寝た子を起こすな」と圧力をかけ、国際基準の導入は見送られた[40]。

タテマエでは、保安院が直接的な規制を担当。安全委は規制や政策の企画や決定、 規制の監視・監督を行うことになっている[41]。やったのは逆で保安院が安全委を 監督した。

では官僚が一番強い権限を持つのかと言えば、それは場合による。

(経産省の官僚の発言[42]):

99年頃、省内で電力自由化を進めるべきだという改革論が勢いを持った。 それに対して東電は政治力を使って反撃してきた。わが省は財界を味方につけて いる時は政治力を発揮できるが、そうでないと脆い。最後は改革派が総崩れになった。

その後の東電の報復はすさまじかった。自由化推進派だった部長は、長官ポストが 約束されていたのに、退官に追い込まれた。その部下も地方に飛ばされた。 出世したのは自由化反対派ばかりだった。

つまり、規制されるはずの東電が、逆に官僚を規制していたのである。

■補足AA(2012/5/7):神保哲生(フリー・ジャーナリスト)はラジオで 記者クラブの問題について話した[45]:

記者クラブは他のメディアを排除するだけではなく、社内で他の部門が記者クラブ の担当する官庁を取材する際に規制・管理する。

原発事故が起きた今は、どの部門の記者でも原発の取材は可能だが、 事故が起きる前は経産省の記者クラブが専権を持っていて、ほかの部門が 自由に取材するのを妨げてきた。

対人地雷が問題になっていた時、地雷は防衛庁の記者クラブの専権だった。 防衛庁は、地雷は専守防衛に適しているので放棄はありえないという立場だった。 新聞に出ている言説はそういうラインだった。

97年にNGOが世界で地雷廃絶運動を展開した。それを取材している社会部の遊軍の 若い記者は世界のうねりになっているのを知っていたが、社内では地雷に関して書く 権限がなかった。

地雷に関する会見に(神保哲生が)行ったところ、黒塗りの車が着き、防衛庁の 記者クラブのオジサン記者が来た。NGOを取材していた自分の社の社会部の遊軍の 若い女性記者がいるのを見て「なんでオマエがいるんだ。社会部長に言っておく から覚えておけ」と強く叱責して、女性記者を泣かせた。

行政組織の縦割りの弊害が批判されてきたが、マスメディアも官庁に対応した縦割り なのだ。これによってマスメディアが行政と一体化する。

環境問題に関する本の中で、竹村公太郎(元国土交通省河川局長)は行政の 縦割りなどについて説明している[44]。

所管する法律または権限というコースターの上に、グラスという行政組織が 載っている。コースター同士が交わることは絶対にない。もし、コースターが 重なり合っていたら、無駄と批判されます。

行政へのニーズが変化してきて隣のコースターと協力していかなければならない はずなのですが、行政バッシングによって委縮して行政活動が先細っている傾向 があります。つまり、行政に地域を横断して何かと何かを連携させることを期待 しても駄目なんです。

どうすればいいのかというと、やはり政治主導なんでしょう。その政治家を 動かすのが誰かというと、結局、市民なのです。

問題は、いかにして力をもった人を味方につけるかということでしょう。 力を持った人というと、行政(の首長)か大企業になるのでしょうが…。 単なる市民運動で反対ばかり唱えても、何も解決しない。

国の行政官はどんどん転勤しますが、赴任先の県会議員や町会議員と個人的な 縁がありません。県や市の職員は、生涯彼らと付き合わないといけないわけです。 しがらみが生じて抵抗できないケースが多いのです。国の出先機関の意味は、 しがらみを乗り越えるところにあると思います。

テレビで與那覇潤(日本史研究者)は日本のシステムは 江戸時代と同じく拒否権を持つ人が多すぎるので決めることが難しいと話した[43]。 その例として地元利権と結びついた政治家や国会の二院制を挙げていた (このサイトには、この件について私の提案がある)。

■補足AB(2012/5/7):週刊誌で瀧本哲史(投資家)と與那覇潤(日本史研究者) が日本の問題について対談している[46]。

(瀧本)社員を過酷な労働条件に見合わない安い給料でこき使い、使い捨てる ような企業が増えてきました。「ブラック企業」と呼ばれているのです。

創業者に対する個人崇拝を強いる会社や、セクハラ、パワハラが横行する会社も 含まれます。

従業員たちが妙なモラル意識の共有や、厳しいルールの順守、上司への忠誠心を 強要されているのです。

興味深いのは、にもかかわらず、そうした従業員の満足度が高いことなんです。

無報酬で無意味なことをやったということを受け入れるのは耐えられないので、 意味があったと思い込もうとするからなのです。

もうひとつの理由は「同一視」です。何かうまくいっているものと自分を 同一視することで、不満を解消しようとする。

(與那覇)客観的にみると無茶苦茶なものでも、自分で理由づけして受け入れて しまうわけですね。

(瀧本)これは政治でも同じです。さらに「コンプライアンス」の徹底による 息苦しさも、企業のブラック化の要因と言えるのではないでしょうか。

ヨーロッパでは目的に応じた監査方法を考えるのに、日本では完璧にやろうとする。 過剰なルールをつくるんです。

(與那覇)絶対守れないルールだと誰もが破るから、足を引っ張りたい奴のことだけ 「彼は違反してますよ」と告げ口する道具に使われるわけですね。

(瀧本)私は、「ブラック国家」という概念も言えると思うんですよ。忠誠心 だけが強調されて、支配されていることに誇りを持った人達が、小さなルール違反を 血眼になって取り締まる、そんな国家です。国家は国民のためにあるのであって、 人権保障のための手段にすぎないはずなのですが。

(與那覇)じつは、日本は江戸時代からブラックな社会だったのではないかと 考えているんです。江戸時代を通じて人口が増えても、農作業に使う牛馬の数が 減る例がある。つまり道具への投資はケチり、人間自身が働きまくって経済成長 を実現させた。

親から引き継いだ土地と仕事を全うするしかなかった。選択肢が一択のみゆえ、 ひたすら頑張る。いまの日本人も、目の前の環境でやるしかないと思えば、苛酷 な職場でも頑張ってしまう。

日本企業のブラック化を防ぐ鍵は、仕事を辞めてもなんとかなる、と思えるくらい に、国家が直接給付の社会保障を充実させることでしょうね。

(瀧本)しかし、ブラック企業より、ブラック国家は、もっとタチが悪い。 警察という暴力を独占しているわけですから。忠誠心を強制され、国民が隷属 されかねない。国家が担う社会保障政策が信頼できるかは疑問です。

(與那覇)本来、行政を監視できるのが司法のはずですが、日本の裁判所は 行政寄りの判決を出してしまうことが多々あります。

■補足AC(2012/5/7):ピエール・スイリ(ジュネーブ大学教授・日本学科長)は 新聞のコラム[47]で日本について書いている:

「日本では天災が世直しの契機でもあった」と指摘した。あれから1年。 私は失望している。

福沢諭吉は「文明論之概略」の中で、あらゆる人間関係が「力」の大小で序列化 された「権力の偏重」を、日本文明を貫く病理と指摘したが、それは今なお根強い ようだ。あまりにも権力に従順すぎる傾向を感じさせる。

■補足AD(2012/5/7):日本の情報管理は現代社会とは思えないほど幼稚でオソマツ だ。記録しない、記録しても隠す、改竄する、捨てる。伝言ゲームの失敗を繰り返す。

日本より遅れていると思っていた国々の公文書管理がちゃんとしていると知って、 官僚は急遽、公文書管理法制定(2009年)に動いたが実態は以前のままである[48]。

この背景を想像してみた:

日本の官僚は権威主義だ。セクション内では上位者に異論を唱えることができない。 一方で、セクション間では縄張争いがあり、合理的で統一した意志決定はできない。

こうした組織は失敗しやすい。 失敗しても上位者は権威を維持するため責任をとることはない。 責任を取らないですむ方法は記録を残さないことである。

記録しなければ情報伝達は伝言ゲームとなるので誤解が生じて失敗する。 記録を残さないので学習できないから同じ失敗を繰り返す。

(例)秘密保全法の有識者会議の新聞記事[49]より:
「秘密保全法制に関する有識者会議」が配布資料をHP公開用に改ざん・捏造していた ことが分かった。議事録を作成しなかったり、事務方メモを破棄したりしたことも 判明しており、「隠蔽工作のデパート」だ。(佐藤圭)
(例)原発事故の議事録未作成の新聞記事[50]より:
「議事録の未作成」「傍聴者の閉め出し」「委員の利益相反疑惑」…。 原発事故をめぐってさらけ出されるずさんな政府対応やお役所会議。

ジャーナリストの政野淳子さんは「良く解釈すれば、官僚の意識が低かったの だろうが、議事録を残したくないという意識が働いたとしか思えない」。

そして会議や議事録をきちんと公開する意味をこう訴えた。「結論ありきで理由は 後から考える−というおかしな政策決定が横行し、原発事故の被害を拡大させた。 正確な記録は、責任の所在を明らかにする。今後、政府や行政の無責任体制を助長 しないためにも、公開の精神を徹底しなければならない」

(例)北朝鮮ミサイルの発射警報の伝言ゲームによる失敗[51]:
早期警戒衛星の情報が米軍から早期警戒情報(SEW)として防衛省中央指揮所と 自衛隊航空総隊司令部に伝達される。自衛隊航空総隊司令部は自衛隊レーダー の追加情報も防衛省中央指揮所に送る。防衛省中央指揮所は首相官邸にこれらの 情報を伝達する手順になっていた。

2009年、ロケット発射の前日に誤情報が発生した。 試験運用していたガメラ・レーダーが「何らかの航跡」を探知しただけなのに レーダー担当者は航空総隊司令部担当者に音声で、 発射を意味する「スパーク・インフォメーション」「飯岡探知」と伝えた。

航空総隊司令部担当者は航空総隊司令部内に報告する時に音声で、 「飯岡探知」「SEW(早期警戒情報)入感」と言い間違えた。
※(日本のレーダー情報を米軍の衛星からの情報と間違えたのである)

航空総隊司令部内は防衛省中央指揮所に、そのまま報告した。 防衛省中央指揮所は本来直接米軍からSEWが届くはずなのに、 それを確認せず官邸危機管理センターに「発射」と伝えた。

このミスの原因を自衛隊は「手順を守らなかったヒューマンエラー」とした。 2012年の北朝鮮のロケット発射に対して官邸はダブルチェックしていたため発表が 大幅に遅れた。

人による誤解を生みタイムラグを生じる伝言ゲームではなく、オリジナルの情報を 電子記録してコピーをダイレクトに送付するシステムを口頭伝達に追加しなければ、 失敗を繰り返すだろう。

(例)福島第一原発事故でヨウ素131による内部被ばくの詳しい調査がなかった[52]:

なぜ半減期8日のヨウ素が消える前に詳しい調査が行われなかったのか。 原子力災害対策本部の担当者に取材すると5月に前任者から引き継いだ書類は2枚の FAXのみ。それは3月末の甲状腺の調査をめぐる原子力安全委員会とのやり取りだ。 対策本部はそれまでにやったスクリーニング調査に詳しい調査を追加すべきか 安全委員会に問い合わせた。

安全委員会は「直ちに追跡調査を実施する必要はないが、福島第一原子力発電所 の今後の状況を見つつ、最終的な追跡調査の実施の有無について判断することが 望ましい」と回答した。

対策本部の現在の担当者は「今後の状況を見つつ」という言葉を「原発事故が悪化しな ければ必要ない」と解釈して調査しなかったと聞いています、と答えた。

安全委員会に取材すると「今後の状況を見つつ」という言葉は「さらに爆発しない かぎり、という意味ではない」「やったほうがいい、の意味」だという。 「経緯を踏まえていればそのように読むとは夢にも思っていなかった」と述べた。

安全委員会は、やり取りの資料を全て保存していた。それを見ると対策本部に 「測定することをお勧めします」と書いてある。しかし対策本部は追跡調査をしない ことを決定した。理由は(1)機材が重い、 (2)検査場所まで移動するのが本人に負担、 (3)社会に不安やいわれなき差別を生む、というもの。

再び対策本部に確認すると、「資料が保管されていないため事実関係を把握できない」 という返事だった。

情報管理のオソマツさだけでもヒドイものだが、検査をやらない理由が、 取って付けたようなものなので、疑惑も浮かんで来る。過去、工場排水により 引き起こされた水俣病に関しても「行政はこの56年間、一度もきちんとした疫学調査を 実施していません」「『調査をしない。データを残さない』というやり方は、 明かに加害企業の責任追及をやりにくくするのが狙いであると思わざるを えません」と批判されている[52]。

(例)福島第一原発事故の際に東電が現場から全員撤退すると「言った」 「言わない」で問題になった[53]:

東京電力が福島第一原発から全員撤退するとの情報により 官邸が混乱した問題で、官邸にいた東電社員が福島第一の放棄に言及する一方、 別の幹部は保安院に一部退避すると説明していたことが、当事者の証言で分かった。 官邸と保安院の間で情報の共有が図られることもなく、官邸は東電が現場を放棄しよう としていると確信。菅直人首相(当時)が東電本店に乗り込む事態に発展した。
危機的な状況であるにもかかわらず、情報伝達が口頭であり録音もされていないらしい ことに呆れる。当時、この件で菅首相バッシングをするマスメディアもあったが、 情報伝達のシステムを整備してなかった官僚こそが批判されるべきである。

(例)SPEEDI情報の配送先の限定[54]:

SPEEDIを運用する原子力安全技術センターによると、センターは昨年3月11日の 午後4時40分、文科省の指示を受け放射性ヨウ素が毎時1ベクレル放出されたとの仮定 で試算を開始。1時間ごとに文科省や保安院にデータを送った。オフサイトセンター と福島県にも送る予定だったが、回線が壊れたため送れなかった。だが、メールの 回線ならが送れることが分かり、11日深夜、県原子力センターからの送信依頼を受け、 画像をメールで送信。12日深夜には県庁の災害対策本部にも送り始め、1時間ごとに 更新し続けた。ところが、県の担当者によると、15日朝までメールの着信に気づかず、 それまでに届いていたメールは消してしまったという。県は、その後も送られた データを公表せず、市町村にも知らせなかった。これらとは別に、県は13日午前 10時半ごろ、保安院からもファクスで拡散予測を受け取っていた。こちらも12〜13日 早朝までのデータだったため、公表しなかった。県の担当者は「データは20キロ圏 の範囲で、既に住民は避難した後だった」と釈明した。
行政はSPEEDI情報を隠蔽したり、後でその責任を「なすり合い」したりしているが、 当初期待されたように発表したとしてもデータの配送先が限定されすぎている。 報道機関、特にNHKにダイレクトに情報を提供しなけば住民に情報が伝わる わけがない。

■補足AE(2012/5/28):テレビ局内部の権威主義について、 3月に日本テレビを退社した元ディレクター水島宏明が話している[56]:

震災後、NNNドキュメントの企画会議では、「うちは読売グループだから、 原発問題では読売新聞の社論を越えることはするな」と通達された。

今のテレビ局全体の問題だと思いますが、プロデューサーやデスクの幹部・中堅社員 が、あらかじめ報道内容のディテールまで会議で決める傾向が強まっています。

現場に出る若手社員や下請けの派遣社員は、その指示に沿った取材しか許されない。 震災以降、現場軽視をますます痛感し、私は会社を辞める決意を固めました。

日テレ系列の福島中央テレビは震災翌日、福島第一原発1号機の水素爆発の瞬間を メディアで唯一、撮影して速報しました。ところが、その映像が日テレの全国ネット で流れたのは1時間後のことです。報道局の幹部が専門家などの確認が取れるまで 放映を控えると決めたからです。本来なら「確認は取れていませんが、 爆発のように見える現象が起きました」といってすぐ映像を流すべきでした。

その後も、本社や記者クラブ詰めの記者の多くは、国や東電など「権威」の いうことを机に座ってメモするだけでした。 テレビ報道が「権威」から離れる道もあるはずです。たとえば霞が関の官僚 たちを、匿名を許さず「原子力安全・保安院〜〜課長補佐〜歳」というように 実名にして、何をいってどう行動したか詳しく伝えるだけでも、責任を追及 する報道に変わるはずです。

■補足AF(2012/5/28): なんで日本は、こんなにダメな国なのか。明治維新の近代化も、第二次大戦の敗北に よる民主化も、上からの改革であった。今の日本のダメさは上からの改革の限界を 示していると思う。

明治維新の近代化は、封建社会に「接ぎ木」したものだった。 下からの近代化要求(自由民権運動)は徹底的に弾圧された[63]。

維新政府に理解できた欧米社会のモデルは、おそらく上意下達の軍隊組織だけ だったのではないだろうか。

学校教育は軍隊式になった。森有礼(文部大臣)は兵式体操の必要を力説した。 師範学校の寄宿舎は兵営のようだった。鉄砲までおいてあったという[57]。

現在でも見られる詰襟の学生服は、古色蒼然とした明治時代の軍服を思わせる。 先進国で、こんな制服を着せている国が他にあるか?

明治時代から敗戦までの日本では、軍隊式の上意下達の学校教育を経て大人になった。 そんな大人が作る日本の社会は上意下達の組織文化が当たり前になっただろう。

ところが軍隊的組織はアメリカでさえ欠陥組織なのである。たとえば 米国エネルギー省長官の元上級政策顧問だったロバート・アルバレスの発言[58]:

「特に核に関する科学の分野は軍と密接な関係にあり金も潤沢に使えた」 「科学者は軍のための存在になっていた」 「この組織ではリーダーが、『死の灰の危険は無い』と言えばグループの考えとなり 公的な見解となる」「逆らう者は経歴を失い孤立させられる」
1945年の敗戦による民主化も、冷戦の進行で中断された。 たとえば青木理(ジャーナリスト)によれば[59]:
「戦後の検察組織は、公職追放によって枢要幹部が一時的に失われたとはいう ものの、検察官が司法権を総覧するほどの権力を有した戦前型検察システムを かなりの部分で温存することに成功した」。
アメリカに占領されていたころの日本について、 寺島実郎は次のような文章を書いている[60]:
マッカーサーの解任・帰国後、日本の国会は「マッカーサー感謝決議」を 行った。こうした日本人の思い入れに対する彼の回答が、米上院軍事 外交委員会における発言であった。 「日本人はすべての東洋人と同様に勝者に追従し、敗者を最大限に見下げる 傾向をもっている」「科学・美術・宗教・文化などの発展の上から見て、 アングロ・サクソンが45歳の壮年に達しているとすれば、ドイツ人もそれと ほぼ同年輩である。しかし、日本人はまだ生徒の時代で、まだ12歳の少年である」

日本人の権威主義的性格を見抜き、フィルモア大統領の「国書」 (実際には、ペリー来航時にフィルモアは前大統領にすぎなかった)を仰々しく 差し出し、砲艦外交で開国を迫ったペリーとマッカーサーには共通する 「抑圧的寛容」が滲みでている。

戦後日本の政治家の権威主義を示す次のようなエピソードもある[61]:

日系二世の米人DANIEL INOUYEは1959年に初の日系人議員として来日して、 岸信介首相に面会した。 INOUYE議員は岸首相に、「日系人をアメリカ大使として派遣することを希望 している人達がおります」と言った。それに対して岸首相の返事は;

「うまくいくとは思えません」 「(日本では)外務担当者は伝統的に貴族の出の人たちです」 「現在でも閣僚になる人達の家系は名士の出です」 「アメリカへ移住した人たちは日本では経済的脱落者でした」。

このように日系米人を見下した岸信介は、一方ではCIAに雇われた工作員であった。 ティム・ワイナー(ジャーナリスト)の本から抜粋[62]:
岸はアメリカ人に、自分の戦略は自由党をひっくり返し、名前を改め、立て直して 自分が動かすことだと語っていた。岸が舵を取る新しい自由民主党は自由主義的 でも民主主義的でもなく、帝国日本の灰の中から立ち上がった右派の封建的な 指導者たちを多くそのメンバーとしていた。岸は日本の外交政策をアメリカの 望むものに変えていくことを約束した。
こんな風に家系がどうだとか空虚なガラクタに執着して、現実を軽視する権威主義 だから「日本人は12歳の少年だ」「日本人は半文明人だ」(補足Aを参照) などと言われても仕方ないようなダメな国になったのだ。力の弱い者はいじめて、 力の強い相手には迎合する前近代の文化なのだろう。

ユダヤ系米人は、アングロサクソン系米人から差別されてきたが、 イスラエルはユダヤ系米人の力を使ってアメリカの政策に大きな影響を 与えている。

日系米人も、アングロサクソン系米人から差別されてきたが、 日本は日系米人の力を使ってアメリカの政策に影響を与えることはできず、 ただアメリカに追従するだけである。

※ 追記:この国を幼稚だと言うのはマッカーサーだけではない。

死刑が確定したが半世紀無実を訴えている名張毒ぶどう酒事件について[64]: 最高裁は名古屋高裁に対して再審を認めるか審議するよう命じていたが、 名古屋高裁は棄却した。裁判官は検察官さえ主張していない推論で弁護側の 証拠を否定した。

これに関するノンフィクション作家佐野眞一の意見は、 「原発の安全神話は崩壊したと思うんですけど、司法においては無謬神話が高い 塔のようにあるんだと思います。司法は間違いがない、という子どもっぽい…。 誤ったものは間違いでしたと是正するのが本来の大人の感覚なんですが…。 原発と同じように自己保身、組織防衛が働いているんだと思います」

※ 追記:市民革命に失敗した後進的なドイツの立憲君主制を取り入れた ニセ近代制度である明治憲法から、国民主権の日本国憲法に表向きは 変わったが、中味は本当には変わっていないようである。 法学者の大浜啓吉によれば[65]、 「私が明治憲法に拘るのは、国家と私人の法律関係を規定する行政法の世界では、 明治憲法下でドイツから承継された学説が、今日においても通説として生き残って いるからです。法制度や行政実務の中で通用しているだけでなく、時には裁判所の 判例としても顏を出すのです」。

「ドイツの立憲君主制は、君主の権限は本来オールマイティであるが、私人の 『自由と財産』を侵害する場合には、法律の根拠が必要だとするものです。 この理論を支えるために主張されたのが法実証主義です。 実定法(国会で制定された法律)のみを法とする考え方です。 分かりやすくいえば、自然法思想に裏付けられた基本的人権を認めない立場です」。

■補足AG(2013/1/28):学校で軍隊式のやり方が色濃く残っているのは 体育系の活動であるらしい。

大阪市立桜宮高校バスケットボール部顧問の男性教諭から体罰を受けていた 男子生徒が自殺した問題を受けて、西岡宏堂(日本高校野球連盟審議委員長)は 次のように話した[67]:

体罰はなぜ消えないのか。それを容認する風潮が世の中にまだ残るからだと思う。 高校野球では下級生に対する上級生の暴力も後を絶たないが、手を出す指導者を 見れば、俺らも同じことをしてもいいとなる。これでは負の連鎖は断てない。
この問題について政治学者の山口二郎は次のように書いている[68]:
ブラック企業における労働者の使い捨てと運動部の体罰は同根である。 体罰やハラスメントは上から下へと伝染する。丸山真男は抑圧移譲という言葉で 日本社会における「権力の偏重」を説明した。上下関係で社会をとらえ、権力を ふるうことを当然と考えるのが、権力の偏重である。人間として扱われない者は、 弱い者をいじめて憤懣を晴らそうとする。学校で起こっていることは、社会の縮図 である。

※ 追記:ホームレスの人を襲撃する若者、被差別部落問題、生活保護受給者バッシング、 在日コリアン差別なども抑圧移譲だろう。

※ 追記:新大久保の韓国人街などでデモを行い、在日コリアンに対して「殺せ!」などと 差別的攻撃的な言動(ヘイトスピーチ)を行っているグループ「在日特権を許さない市民の 会」に参加している1人は「それをやることによって自分の不遇な人生を満たしている人 もいる」と話した[69]。在日特権といえば、本当にそれを持っているのは在日コリアン ではなく米軍である。

※ 追記:神奈川県で、2008年〜12年に一般刑法犯(自動車による過失致死傷を除く) として送検された米軍人・軍属とその家族122人のうち起訴されたのは、わずか7人だった。 強姦などの性犯罪では16人全員が不起訴だった[71]。




参考資料



[1]http://d.hatena.ne.jp/pick-up/の(2007年4月6日)の記事

[2]『お役所の掟』宮本政於/1993(講談社)<この他にもあり>

[3]週刊金曜日(2010/2/19)、週刊金曜日(2010/8/6)

[4]東京新聞(2010/5/22)

[5]放送大学(2010/7/3)『教育の最新事情』

[6]東京新聞(2010/9/18)『放射線』

[7]東京新聞(2010/9/17)『本音のコラム』佐藤優

[8]東京新聞(2010/9/18)『こちら特報部』

[9]東京新聞(2010/9/24)『本音のコラム』佐藤優

[10]東京新聞(2010/9/25)『こちら特報部』

[11] 毎日新聞(2010/9/26)『質問なるほドリ』

[12]NHK総合テレビ(2010/10/7)『クローズアップ現代』

[13]東京新聞(2010/10/19)『こちら特報部』

[14]日本テレビ(2010/11/21)『NNNドキュメント'10』

[15]『日本はなぜ貧しい人が多いのか』原田泰/2009(新潮選書)

[16]NHK総合テレビ(2011/1/9)『日本人はなぜ戦争へと向かったのか(1)』

[17]NHK教育テレビ(2010/10/3)『なぜ希望は消えた?(あるコメ農家と霞が関の半世紀)』

[18]NHK総合テレビ(2011/1/16)『日本人はなぜ戦争へと向かったのか(2)』

[19]文藝春秋(2011/3)『足利事件キャンペーン(5)』清水潔

[20]週刊金曜日(2011/4/15)『国策捜査(第24回)』青木理

[21]東京新聞(2011/5/28)『社説』

[22]東京新聞(2011/10/16)『こちら特報部』

[23]TBSラジオ(2011/11/9)『Dig』

[24]東京新聞(2011/11/30)『こちら特報部』

[25]NHK教育TV(2011/12/11)ETV特集『シリーズ大震災発掘』(第1回埋もれた警告)

[26]『徹底研究 日本国の「失敗の本質」』(「中央公論」平成24年1月号別冊)

[27]東京新聞(2011/12/18)『新聞を読んで』

[28]週刊金曜日(2011/11/25)

[29]週刊金曜日(2011/12/9)

[30]週刊金曜日(2011/11/17)

[31]マスコミ市民(2011/9)

[32]NHK総合テレビ(2011/11/15)『クローズアップ現代』

[33]NHK総合テレビ(2011/10/29)『NHKニュース24』

[34]NHK総合テレビ(2010/11/7)『862兆円借金はこうして膨らんだ』

[35]東京新聞(2012/1/17)

[36]週刊金曜日(2011/6/3)

[37]週刊金曜日(2012/3/9)

[38]東京新聞(2012/4/3)

[39]MSN産経west(2012/4/2)

[40]毎日新聞(2012/3/17)、東京新聞(2012/3/29)

[41]東京新聞(2011/4/15)

[42]週刊ポスト (2011/7/22, 29合併号)

[43]NHK教育テレビ(2012/3/31)『ニッポンのジレンマ』

[44]『環境を知るとはどういうことか』養老孟司・岸由二/2009(PHPサイエンス・ワールド新書)

[45]TBSラジオ(2012/2/21)『Dig』

[46]週刊現代(2012/4/21)

[47]毎日新聞(2012/3/14)『再生への提言』

[48]東京新聞(2010/1/1)、東京新聞(2010/3/9)

[49]東京新聞(2012/4/13)『こちら特報部』

[50]東京新聞(2012/1/28)『こちら特報部』

[51]TBSテレビ(2012/4/14)『報道特集』

[52]NHK教育テレビ(2012/3/11)『ネットワークでつくる放射能汚染地図5:埋もれた初期被ばくを追え』

[52]週刊金曜日(2012/4/20)『水俣と福島を結ぶ黒い線』(アイリーン・美緒子・スミス)

[53]東京新聞(2012/4/3)

[54]東京新聞(2012/3/21)

[55]『「権力」に操られる検察』三井環/2010(双葉新書)

[56]週刊ポスト(2012/6/1)

[57]『日本の教育』宗像誠也・国分一太郎(編)/1962(岩波新書)

[58]テレビ朝日(2011/12/25)『ヒバクコク〜切り捨てられた残留放射線〜』

[59]週刊ポスト(2012/5/25)/青木理

[60]世界(2012/5)/寺島実郎『脳力のレッスン(121)』

[61] NHK教育テレビ(2008/9/28)ETV特集『日系アメリカ人の“日本”』

[62]『CIA秘録』ティム・ワイナー/2008(文藝春秋社)

[63]NHK教育テレビ(2012/1/15)『日本人は何を考えてきたのか』(第2回 自由民権 東北で始まる)

[64]テレビ朝日(2012/5/25)『報道STATION』

[65]科学(2012/4)/大浜啓吉(行政法・憲法)『市民社会と行政法(7)』/岩波書店

[66]産経新聞(2012/8/7)/NHK総合テレビ(2012/8/15)NHKスペシャル『終戦』

[67]毎日新聞(2013/1/19)『体罰問題 私の視点(上)』

[68]東京新聞(2013/1/20)『本音のコラム』山口二郎

[69]NHK総合テレビ(2013/5/31)『NHKニュース/おはよう日本』

[70]『化学に魅せられて』白川英樹/2001(岩波新書)

[71]東京新聞(2014/1/3)

[72]科学(2013/1)/トム・ガリー『英語は科学の共通語に適しているか』/岩波書店

[73]東京新聞(2014/5/3)『考える広場』

[74]NHK総合テレビ(2014/8/6)NHKスペシャル『水爆実験60年目の真実』

[75]毎日新聞(2014/9/27)

[76]『科学者に委ねてはいけないこと』尾内・調(編)/2013(岩波書店)






著:佐藤信太郎
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